ネットはその根幹にあるシリコンバレー気質、フリーカルチャー文化から「漫画村」のような違法コピーサイトをどうしても生み出してしまう。
不可能を可能にするシステムそれ自体は絶対的に善だが、誰かの自由は別の誰かの不自由を招くものである。
つまり「不能さ」を被っているアクターを考えた方が「漫画村」問題の本質に近付けるだろう。
まず、読者にとってフリーアクセスが可能となったことで、漫画家にとっては回覧数に等しい対価を得ることが不可能となった。
これが第一。
そして第二のアクターが広告主の存在である。
広告については、2通りのユーザーについて考える必要がある。金のあるユーザーと金のないユーザーだ。
後者については話は単純、金のないユーザーが広告をクリックしたところで商品購買には繋がりにくい。
ここでは漫画村のみがクリック謝礼の味を占め、スポンサーはただただ損をする。
すなわちこのケースだと、スポンサーは広告費に対する十分な対価を得ることができないいうことだ。
もう一つのケース、金のあるユーザーについて。
こちらが肝心な話になる。
金を持ったユーザーが広告をクリックし、商品購入に繋がれば漫画村、スポンサーと三者ともにWin-Winの関係が成立する。
つまり、貧乏ユーザーケースで不能さを被った広告主は、他方の金持ちユーザーケースの場合だと利益を獲得しているのである。
ここに「漫画村」という現象の理不尽さがある。
すなわち、本来作家の手に落ちるべきユーザーのお金が、作家を素通りして漫画村とスポンサーに流れることで、作家を抜きにしたままWin-Winの経済圏を成立させてしまうのである。
文化資本は富裕層に独占されるべきでないというフリーカルチャーを装いつつ、実際のところは富裕層の存在抜きに駆動することはない、それがwebである。
すなわち漫画村を維持しているのは、広告をクリックすることに躊躇いを覚えない裕福なユーザーと、ユーザーのクリックに対して無差別に謝礼を支払うweb広告システムに他ならない。
ユーザーにとっては、読みたい漫画さえ読めればそれで良い。
webサイト運営者にとっては、PV数と広告のクリック単価さえ増えればそれで良い。
広告主にとっては、合法サイトだろうが違法サイトだろうが顧客さえ獲得できればそれで良い。
インターネットにおける「フリーカルチャー」とは、こうした近視眼的欲望から出来しているのだ。
「彼は日記を記す人以外のなにものでもなく、日記のために生き、日記において日記によって生き、そして日記に何を書いたらよいのか、何ももう思いつかないということを最後には日記に書くまでに至った人であった。」(『ブリブンケンの人々』)
2018年4月14日土曜日
2018年4月11日水曜日
Horst Bredekampの"Bildakt"
今年もまた、春学期が始まった。
院ゼミで、ホルスト・ブレーデカンプというイコノロジー研究者を紹介して頂いた(名前だけ)。
日本語でも十冊近く訳書が出ている。
古代憧憬と機械信仰―コレクションの宇宙 (叢書・ウニベルシタス)
フィレンツェのサッカー―カルチョの図像学 (叢書・ウニベルシタス)
ブレーデカンプの唱える「図像行為論 Bildakt」という概念がイラストレーション研究にどう活かせるかというと、たとえば莫大なバリエーションのイラストの無料配布によって一大現象となった「いらすとや」や、pixivが標榜する「イラスト・コミュニケーション」という在り方を従来のイコノロジーの延長で捉えるといった見方が立てられるのではないかと考えている。
とはいえ、まだブレーデカンプの著作を直接読んだわけではないのでただの安易な推測である。
<参考>
「Bildakt」については東大表象のREPREにわずかながら情報が載っている。
Humboldt-Kolleg 2016 ー Bilder als Denkmittel und Kulturform
思考形態と文化形象としてのイメージ
https://repre.org/repre/vol28/topics/03/
院ゼミで、ホルスト・ブレーデカンプというイコノロジー研究者を紹介して頂いた(名前だけ)。
日本語でも十冊近く訳書が出ている。
古代憧憬と機械信仰―コレクションの宇宙 (叢書・ウニベルシタス)
フィレンツェのサッカー―カルチョの図像学 (叢書・ウニベルシタス)
ブレーデカンプの唱える「図像行為論 Bildakt」という概念がイラストレーション研究にどう活かせるかというと、たとえば莫大なバリエーションのイラストの無料配布によって一大現象となった「いらすとや」や、pixivが標榜する「イラスト・コミュニケーション」という在り方を従来のイコノロジーの延長で捉えるといった見方が立てられるのではないかと考えている。
とはいえ、まだブレーデカンプの著作を直接読んだわけではないのでただの安易な推測である。
<参考>
「Bildakt」については東大表象のREPREにわずかながら情報が載っている。
Humboldt-Kolleg 2016 ー Bilder als Denkmittel und Kulturform
思考形態と文化形象としてのイメージ
https://repre.org/repre/vol28/topics/03/
2018年4月5日木曜日
180405 鳩羽つぐとtanasinn
twitterに流行っている#tsugutronicaというタグが非常に良い。
— Rin (@rinx2musixxx) 2018年3月26日
鳩羽つぐというYoutuber(?)の動画をカットアップしたエレクトロニカ音楽がアマチュアによって作られている。
そもそも鳩羽つぐというコンテンツ自体が興味深い。
情報を最小限にとどめることで観客の想像力を現在進行形で爆発的に引き立てつつある。
「鳩羽つぐとはどういう存在か?」を一切明示することなく「鳩羽つぐは歯を磨き、外で写真撮影する」という行動だけを示すことにより、類稀な「思わせぶり系ネットミーム」として成功している。
思わせぶり系のネットコンテンツとしては、2ちゃんねる発のネットミーム「tanasinn」なんかも思い出される。
(tanasinnの震源地となったサイトはリンク切れになり、魚拓サイトからしか参照できなくなった。ページを開くと強制的に音声ファイルがダウンロードされるっぽいので一応注意。そして今気づいたが、明らかにFLASH動画「ゴノレゴ」の音声混じってるな…)
tanasinnでも事態は同様、「tanasinnとは何か?」という問いに対する答えにその性質が現れる。
「tanasinnが何なのかを言葉ではっきりと説明する(●)∵∴きないが、しばしばシュールレアリズム的な雰囲気を伴う。」(http://dic.nicovideo.jp/a/tanasinn)素性を隠すこと、唯一無二の雰囲気を身にまとうことにより、鳩羽つぐ/tanasinnは優れたネットミームとして拡散する。
関連して、創作世界観「SCP財団」の一作品の着案材料として、彫刻家・加藤泉の作品が用いられ、SCPファンによって様々な形で経験、拡散されたことも挙げておこう。
©加藤泉 |
このケースが面白いのは、現代アートとネットミームとの出会い(あるいは再開?)により、元々は一彫刻作品だったものがキャラクター化した点にある。
これは流石に村上隆でも想像できなかった事態だろう。
偶然の成すべきことやいかに。
pixivユーザーによる「二次創作」がなされた彫刻作品は本作が世界初ではないだろうか。 |
現代アートが具現化する架空の生命のようなものが、その素性を明らかにすることはそうそうない。
それゆえ、現代アートとネットミームとはそもそも親和性が高いと言えるだろう。
tanasinnにどこか現代アート的、シュルレアリスム的雰囲気を感じたとすればそれも偶然ではあるまい。
とうに過去の遺物となったtanasinnはさておき、今は今を注意しておきたい。
鳩羽つぐはこれからどのような展開を見せるのだろうか。
おまけ
「思わせぶり系」動画職人としてはぴろぴと氏が好き過ぎるので貼っておきます。観ましょう。
2018年4月3日火曜日
外国語の憂鬱
今年も科目登録の時期が来てしまった。
本当に僕は大学院から無事退院できるのだろうか。
しばらく大学から離れている内に外国語の学び方が行方不明になってきたので、
「アラビア語とロシア語をマスターすると見える世界」
を読んだ。
結局どういう世界が見えてくるのかは良く分からなかったが、筆者のユニークな学習プロセスが事細やかに紹介されていてとても参考になる。
【これから読む】
Réseaux sociaux : comment l’hyper-socialisation accentue la division
フランス語でIT系の文章は中々見つからないのだが、
http://www.mediaculture.fr/
に最新技術に感度の高い系のテクストが量産されてるみたいなので、おフランスのデジタルコミュニケーション事情を知るにはかなり重宝しそう。
大学に「コミュニケーション専攻」みたいなコースもある国だし、リサーチの中で日本とは違った事情が覗けることを期待したい。
本当に僕は大学院から無事退院できるのだろうか。
しばらく大学から離れている内に外国語の学び方が行方不明になってきたので、
「アラビア語とロシア語をマスターすると見える世界」
を読んだ。
結局どういう世界が見えてくるのかは良く分からなかったが、筆者のユニークな学習プロセスが事細やかに紹介されていてとても参考になる。
【これから読む】
Réseaux sociaux : comment l’hyper-socialisation accentue la division
フランス語でIT系の文章は中々見つからないのだが、
http://www.mediaculture.fr/
に最新技術に感度の高い系のテクストが量産されてるみたいなので、おフランスのデジタルコミュニケーション事情を知るにはかなり重宝しそう。
大学に「コミュニケーション専攻」みたいなコースもある国だし、リサーチの中で日本とは違った事情が覗けることを期待したい。
2018年4月2日月曜日
世間のUI/UXデザイナー、KPI脳に侵され過ぎじゃない?
深津貴之氏の
Adobe Summit 2018の新技術まとめ
を読んだ。
webマーケティングが目指す「問題解決」というスローガンは、一つの問題が解決されると同時に新たに生じる問題に目を塞いでいるからこそ軽々しく口に出来るマジックワードなのだろう。
web業界をしばらく調べている間に、そう考えるようになった。
なので、Adobeが人工知能やら機械学習やらを活用した結果生まれたのがwebマーケティングサービスとは、正直残念に思える。手詰まりなのだろうか。
Adobe Summit 2018の新技術まとめ
を読んだ。
webマーケティングが目指す「問題解決」というスローガンは、一つの問題が解決されると同時に新たに生じる問題に目を塞いでいるからこそ軽々しく口に出来るマジックワードなのだろう。
web業界をしばらく調べている間に、そう考えるようになった。
なので、Adobeが人工知能やら機械学習やらを活用した結果生まれたのがwebマーケティングサービスとは、正直残念に思える。手詰まりなのだろうか。
2017年1月14日土曜日
pdfをそのままePubに変換し電子書籍を作る
本記事は2017年の記事であり、少し古い内容となってます。
2020年の最新版は新しいサイトに掲載しています。
https://chitomolog.hatenablog.com/entry/2020/06/27/114726
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編集に関わっている同人誌がついに電子書籍化に踏み出したので、電子化手続きの中でも最大の関門、固定レイアウト型でpdfをepubに変換する方法を片っ端から試してみました。
2020年の最新版は新しいサイトに掲載しています。
https://chitomolog.hatenablog.com/entry/2020/06/27/114726
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編集に関わっている同人誌がついに電子書籍化に踏み出したので、電子化手続きの中でも最大の関門、固定レイアウト型でpdfをepubに変換する方法を片っ端から試してみました。
「pdf epub」でググると大量にそれっぽいページがヒットするわけですが、その大多数はアフィリエイト目的で作られたおざなりなサービスであるという地獄が現代のネットランドスケープです。
勿論英語圏中国語圏のユーザー向けのきちんとしたサービスかもしれないですが、日本語で、それもご丁寧に.jpのドメインまで取得しているにも関わらず、日本語ファイルを投げたら豆腐文字になって帰ってくるのには流石に文句言っても良いのではないでしょうか。
この手のサイトは今後も増え続けていくことだろうけど…。
余計な情報は要らない、どうすればpdfからePubを作れるか手っ取り早く知りたい方は一番下までスクロールして下さい。
それでは斬って参ります。
2017年1月6日金曜日
視覚/死角の映画 ― アピチャッポン・ウィーラセタクン『光の墓 รักที่ขอนแก่น』
新年早々、実家から東京に戻って来てすぐ映画館に足を運んだ。表参道のシアター・イメージフォーラム。話題になっていた『この世界の片隅に』も選択肢に入っていたが、茫として流行りを追う気持ちでもなく、イメフォでアピチャッポンのアンコール上映がされていることを知ると直ぐにそちらになびいていった。
丁度一年前の同じ月に始まった企画、「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」で観た『トロピカル・マラディ』では、広大無辺な闇に包まれた熱帯林の中での恍惚なトランス状態を、映像を通して味わうことができた。「ただの映像だよ」と冷たく突き放して俯瞰する態度とは決定的に異なり、アピチャッポン・ウィーラセクタンは我々が「映像」と呼ぶものを「光」と解釈し、映画の別なる相貌を露にさせようとしているように思われる。《Syndromes and a Century》(2006)と《Cemetery of Splendour》(2015)をそれぞれ『世紀の光』と『光の墓』と訳したのは、良い意味での原題に対する裏切りになったのではあるまいか。
丁度一年前の同じ月に始まった企画、「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」で観た『トロピカル・マラディ』では、広大無辺な闇に包まれた熱帯林の中での恍惚なトランス状態を、映像を通して味わうことができた。「ただの映像だよ」と冷たく突き放して俯瞰する態度とは決定的に異なり、アピチャッポン・ウィーラセクタンは我々が「映像」と呼ぶものを「光」と解釈し、映画の別なる相貌を露にさせようとしているように思われる。《Syndromes and a Century》(2006)と《Cemetery of Splendour》(2015)をそれぞれ『世紀の光』と『光の墓』と訳したのは、良い意味での原題に対する裏切りになったのではあるまいか。
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