2016年12月25日日曜日

海の向こうの挑発――曺 泳日『世界文学の構造』(訳:高井修)

 を観て森を観ることは難しい。プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち」の翻訳が、ポストモダンというキーワードで日本のポストモダンを相対化する賭けだとするなら、曺泳日(ジョ・ヨンイル)の『世界文学の構造』は韓国における昨今の「世界文学ブーム」を色眼鏡に日本の近代文学を、そしてそこから連綿と続く「現代日本文学」を相対化する投石だと言える。そして、その試みは小説技巧やテクスト理論に志向しがちな諸作品が、社会の潮流に流されるまいと引き籠ることでまさに社会の潮流に流されていることに盲目になる様をあからしめることに成功している。


 「世界文学の構造」という題が冠せられているものの、我々日本語読者にとって最もスリリングなポイントは、第二章で論じられる日露戦争と夏目漱石、そして「国民作家」の不可分な繋がりについてだろう。

 石の話が出てくる文脈は以下の通り。韓国のある劇作家は、2010年当時の総理大臣を批判する際に、同国における読書文化・活字文化の乏しさこそが現職の「釈然としないことが繰り返し出てくる『タマネギ総理』」を輩出し、そのため経済状況も苦しいままであるというロジックを展開した。つまり彼の主張を整理すると、読書文化に投資を行うことでコンテンツ(文学)産業が発達する、それによって経済が豊かになるというのである。

2016年12月24日土曜日

ノイズそして水墨画――戸田ツトムとアニメーション作家のdesign

0.目次
  1.戸田ツトム経歴
  2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」
  3.コンピュータ、ノイズ、水墨画
  4.ノイジー・アニメーション――Ian Cheng、David OReilly

1.戸田ツトム経歴

・戸田ツトム
1951年生まれ。桑沢デザイン研究所での松岡正剛との出会いをきっかけに、1973年から5年ほど工作舎で活動、その後独立。『MEDIA INFORMATION』、『ISSUE』『WAVE』『GS』など80年代雑誌で独自のスタイルを築き上げる。杉浦康平の文体を引き継ぎつつ、アンチパターンとも呼べるノイズ的空間処理を行った。


2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」

 彼のデザイン思想におけるキーワードが「ノイズ」の概念です。ノイズを単に情報を阻害するものとしてではなく、逆に情報を生産するものとして実作に応用したことが「思索するデザイナー」と彼が呼ばれる所以でしょう。

「何の意味も」読み取れないこの像がヒトの眼球視像より多くの情報量を持っているのだとしたらヒトの営為にとって、情報量の増加とはでたらめさ、あるいは雑音以外の何物でもない。逆に言えば、風景の中に意味を見出すということは、先のいくつかの――といってもそれだけで膨大であるが――厳しい厳しい制限と抑止力を知覚に与えて、できるだけ多くの情報に直接触れないように人体を保護し、外界からの光や情報といった刺戟の大部分を防去するということなのだ。」(戸田ツトム『断層図鑑』(1986年、北宋社)、p.39)

「いずれにしても輪郭が形成される前・事態には状態が一様ではないことの段差、断絶、密度変化などの動因力が機能していることが判る。私はつい最近までこういった兆候へ変移する運動を引き起こす何らかの因子を「ノイズ」と諒解していた。六章までに頻出するノイズというボキャブラリーは大体この周辺の事情を指している。つまり、ほかならぬメディア――触媒――ということであった。」(同書、p339)


2016年12月23日金曜日

【講演会メモ】「真言−翻訳−黄昏 吉増剛造の〈現在〉」(於早稲田大学戸山キャンパス)

第1部ジョーダン・スミス先生の翻訳話は、Twitterのタイムラインに流されたので後日整理してアップします。日本語ネイティブにも読めない詩を英語にするときの工夫が凄まじかった。

第2部は、テレコムスタッフ制作ドキュメンタリー『怪物君 詩人 吉増剛造と震災』の上映。吉増剛造が「原稿」(原稿の概念を覆すような)を作る様子は想像を絶する。現在動画配信サービスbonoboで観れる模様、リンクを貼っておく。
http://video.bonobojapan.jp/contents/detail/10725

第3部、吉増GOZO氏による講演で「聞き取れた」数少ない走り書きをここに載せる。声が悪いということではなく、専門的過ぎてというか異次元過ぎてというか付いていくのに必死だった。自分でも理解できていないが、キーワードを一つ一つ見ると彼が如何なる思索の上で詩作しているかが垣間見える。

第3部、吉増剛造氏。十人が英訳した本は文字通り十人十色で衝撃的。 

浪江で音をたて続ける廃墟、途中の浄土に近づいてる気がした。自由でもなく、ディフェレンスでもない、時間稼ぎでもない。溶けた原子炉みたい。飴屋法水に燃やされた怪物君に「美」。『ミリオンダラーベイビー』のクレオール性。一語一語で異次元に行こうとしてる。詩集も写真のごとく心の傷になる。そういう意味の時々刻々のディファレンス、時間稼ぎはある。 

2016年12月22日木曜日

【tweetまとめ】『クライテリア Vol.1』読書録

『クライテリア Vol.1』




富久田朋子「家族という回線ーー赤坂真理『東京プリズン』を読む」 

【講義録】映画とパノラマの境、カフカの眼。

0. Jörg Robertの『インターメディアリティ概論』を、大学のドイツ語の授業で学部生と並んで読んでいる。大学院の本来の所属でドイツ語圏のメディア学はほとんど扱われない(日本語でベンヤミンを読んではいるが)ので、この講義は学部向けでありながら院生の私にも大変役に立っている。これも折角なので、復習も兼ねて面白い部分をピックアップして非公式の講義録を残すことにした。
 (ちなみに、後期授業が始まった時、最初はIrina O. Rajewskyの『インターメディアリティ』を読んでいたが、話の抽象度と文法の両面で躓くところが多かったため、J・Robertの今読んでいるテクストに方向転換されました。)


1.『インターメディアリティ概論』は、第5章「映画的記述:フランツ・カフカ Filmisches Schreiben: Franz Kafka」から読み始めることになりました。

2016年12月21日水曜日

【書評】行きつ戻りつ――プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち 第一回」(訳:福冨渉)


ぼくはここから始めるべきではない。
始点を巡って逡巡する「新しい目の旅立ち」の導入文に、私は鷲掴みにされた。
 福冨渉氏による紹介によると、本テクストの著者であるタイの作家プラープダー・ユン(ปราบดา หยุ่น、1973-)は、「他者や周囲に興味を持たない『個人』」を描くことで「タイのポストモダン文学」「新世代の代表」として注目を集めている。私はタイのポストモダンについてどころかタイの「モダン」、そしてそんなものがあるのかどうかさえ知らない。東浩紀主催のゲンロンカフェ、および彼らの編集する言論雑誌『ゲンロン』でタイの作家をなぜ取り上げるのか、その文脈も知らない。それについて書く、このブログ自体の出発点もハッキリ自覚していない。何度かブログを立ち上げては、「作ってみました。よろしくお願いします。」と宣言しては、そして一週間も経たないうちに更新が途絶えるということを何度繰り返したことか。
 プラープダー氏が思索の出発点を慎重に審査するのとは反対に、このブログは後付け的に出発点が見出せるよう、テクストについて語りたいという進行形的な意志の上に成立するようにしたい。この意図もまた、後付けである。