tag:blogger.com,1999:blog-77879597661414543252024-03-14T01:17:09.515+09:00批評と記録「彼は日記を記す人以外のなにものでもなく、日記のために生き、日記において日記によって生き、そして日記に何を書いたらよいのか、何ももう思いつかないということを最後には日記に書くまでに至った人であった。」(『ブリブンケンの人々』)omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.comBlogger14125tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-80870702349787275152019-05-10T22:07:00.001+09:002019-05-10T22:07:03.412+09:00ホンジュラスのチャーター都市構想何もない土地に制度的しがらみゼロの状態から都市を作り上げることで、発展途上国の中において香港やシンガポールのような急発展を目指す「チャーター(憲章)都市」が経済学者のポール・ローマーによって提唱されていた。<br />
<br />
2011年頃のことで、その年に公開されたローマーのTED動画はそれなりに大きな反響を得ていたようだ。<br />
<div style="max-width: 854px;">
<div style="height: 0; padding-bottom: 56.25%; position: relative;">
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="480" scrolling="no" src="https://embed.ted.com/talks/lang/ja/paul_romer_the_world_s_first_charter_city" style="height: 100%; left: 0; position: absolute; top: 0; width: 100%;" width="854"></iframe></div>
</div>
<br />
<br />
このチャーター都市がホンジュラスで実現するということを、これまた経済学者であり翻訳者でもある山形浩生氏が著書やブログで紹介していたが、今となって調べてみると結局実現しなかったらしい。<br />
<br />
原因はローマーも参加していた委員会の声を聞かず政府が勝手に海外の開発会社と契約したこと、それに伴いローマーが委員会を辞任したこと、そして2012年に裁判所から違憲判決が出たことなどらしい。<br />
<br />
詳細は次のURLを参考に。それなりに長い記事にまとめられている。<br />
時間のある暇人は全員読むべし。<br />
<br />
Whatever Happened to Charter Cities in Honduras?<br />
<a href="https://antiguareport.com/2018/10/updates-charter-cities-honduras/">https://antiguareport.com/2018/10/updates-charter-cities-honduras/</a><br />
<br />
Plan for Charter City to Fight Honduras Poverty Loses Its Initiator<br />
<a href="https://www.nytimes.com/2012/10/01/world/americas/charter-city-plan-to-fight-honduras-poverty-loses-initiator.html?_r=0">https://www.nytimes.com/2012/10/01/world/americas/charter-city-plan-to-fight-honduras-poverty-loses-initiator.html?_r=0</a><br />
<br />
「a project to turn Honduras into Latin America's Hong Kong(ホンジュラスを南米の香港にする)」というフレーズは非常に聞こえが良い。<br />
惜しむらくは、政府の期待から始まった計画が政府自身の采配によって台無しとなったことであるか。omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-7247998297835193102018-04-14T18:08:00.000+09:002018-04-14T18:08:50.166+09:00漫画村とフリーカルチャーネットはその根幹にあるシリコンバレー気質、フリーカルチャー文化から「漫画村」のような違法コピーサイトをどうしても生み出してしまう。<br />
<br />
不可能を可能にするシステムそれ自体は絶対的に善だが、誰かの自由は別の誰かの不自由を招くものである。<br />
<br />
つまり<b>「不能さ」を被っているアクター</b>を考えた方が「漫画村」問題の本質に近付けるだろう。<br />
<br />
<br />
まず、読者にとってフリーアクセスが可能となったことで、漫画家にとっては回覧数に等しい対価を得ることが不可能となった。<br />
これが第一。<br />
<br />
<br />
そして第二のアクターが広告主の存在である。<br />
<br />
広告については、2通りのユーザーについて考える必要がある。金のあるユーザーと金のないユーザーだ。<br />
<br />
後者については話は単純、金のないユーザーが広告をクリックしたところで商品購買には繋がりにくい。<br />
ここでは漫画村のみがクリック謝礼の味を占め、スポンサーはただただ損をする。<br />
<br />
すなわちこのケースだと、スポンサーは広告費に対する十分な対価を得ることができないいうことだ。<br />
<br />
<br />
もう一つのケース、金のあるユーザーについて。<br />
こちらが肝心な話になる。<br />
<br />
金を持ったユーザーが広告をクリックし、商品購入に繋がれば漫画村、スポンサーと三者ともにWin-Winの関係が成立する。<br />
<br />
つまり、貧乏ユーザーケースで不能さを被った広告主は、他方の金持ちユーザーケースの場合だと利益を獲得しているのである。<br />
<br />
ここに「漫画村」という現象の理不尽さがある。<br />
すなわち、本来作家の手に落ちるべきユーザーのお金が、作家を素通りして漫画村とスポンサーに流れることで、作家を抜きにしたままWin-Winの経済圏を成立させてしまうのである。<br />
<br />
<br />
文化資本は富裕層に独占されるべきでないというフリーカルチャーを装いつつ、実際のところは富裕層の存在抜きに駆動することはない、それがwebである。<br />
<br />
<br />
すなわち<b>漫画村を維持しているのは、広告をクリックすることに躊躇いを覚えない裕福なユーザーと、ユーザーのクリックに対して無差別に謝礼を支払うweb広告システムに他ならない</b>。<br />
<br />
<br />
ユーザーにとっては、読みたい漫画さえ読めればそれで良い。<br />
webサイト運営者にとっては、PV数と広告のクリック単価さえ増えればそれで良い。<br />
広告主にとっては、合法サイトだろうが違法サイトだろうが顧客さえ獲得できればそれで良い。<br />
<br />
インターネットにおける「フリーカルチャー」とは、こうした近視眼的欲望から出来しているのだ。<br />
<br />
<br />omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-35639610636391867852018-04-11T19:29:00.001+09:002018-04-11T19:36:15.993+09:00Horst Bredekampの"Bildakt"今年もまた、春学期が始まった。<br />
<br />
<br />
院ゼミで、ホルスト・ブレーデカンプというイコノロジー研究者を紹介して頂いた(名前だけ)。<br />
<br />
日本語でも十冊近く訳書が出ている。<br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4588005138/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4588005138&linkCode=as2&tag=saiko1618-22&linkId=9a71fc357e625dee4f33f3ff68f3b162" target="_blank">古代憧憬と機械信仰―コレクションの宇宙 (叢書・ウニベルシタス)</a><img alt="" border="0" height="1" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=saiko1618-22&l=am2&o=9&a=4588005138" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" /><br />
<br />
<a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4588007874/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4588007874&linkCode=as2&tag=saiko1618-22&linkId=b79762d7f2b82687b74c4757a173f758" target="_blank">フィレンツェのサッカー―カルチョの図像学 (叢書・ウニベルシタス)</a><img alt="" border="0" height="1" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=saiko1618-22&l=am2&o=9&a=4588007874" style="border: none !important; margin: 0px !important;" width="1" />
<br />
<br />
<br />
ブレーデカンプの唱える「図像行為論 Bildakt」という概念がイラストレーション研究にどう活かせるかというと、たとえば莫大なバリエーションのイラストの無料配布によって一大現象となった「いらすとや」や、pixivが標榜する「イラスト・コミュニケーション」という在り方を従来のイコノロジーの延長で捉えるといった見方が立てられるのではないかと考えている。<br />
<br />
とはいえ、まだブレーデカンプの著作を直接読んだわけではないのでただの安易な推測である。<br />
<br />
<br />
<span style="font-size: x-small;"><参考></span><br />
<span style="font-size: x-small;">「</span><span style="font-size: x-small;">Bildakt」については東大表象のREPREにわずかながら情報が載っている。</span><br />
<a href="https://www.blogger.com/goog_1926821781"><span style="font-size: x-small;">Humboldt-Kolleg 2016 ー Bilder als Denkmittel und Kulturform</span></a><br />
<a href="https://www.blogger.com/goog_1926821781"><span style="font-size: x-small;">思考形態と文化形象としてのイメージ</span></a><br />
<a href="https://repre.org/repre/vol28/topics/03/"><span style="font-size: x-small;">https://repre.org/repre/vol28/topics/03/</span></a>omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-2206599861561559642018-04-05T14:33:00.002+09:002018-04-05T14:34:45.101+09:00180405 鳩羽つぐとtanasinn<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<div style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;">
twitterに流行っている<a href="https://twitter.com/search?f=tweets&vertical=default&q=%23tsugutronica&src=typd" target="_blank">#tsugutronica</a>というタグが非常に良い。</div>
<br />
<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="und">
<a href="https://twitter.com/hashtag/%E9%B3%A9%E7%BE%BD%E3%81%A4%E3%81%90?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#鳩羽つぐ</a> <a href="https://twitter.com/hashtag/Tsugutronica?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#Tsugutronica</a><a href="https://t.co/iTZdfd3xuh">https://t.co/iTZdfd3xuh</a> <a href="https://t.co/jYrxn9lNBA">pic.twitter.com/jYrxn9lNBA</a></div>
— Rin (@rinx2musixxx) <a href="https://twitter.com/rinx2musixxx/status/978264216120410112?ref_src=twsrc%5Etfw">2018年3月26日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="https://platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
鳩羽つぐというYoutuber(?)の動画をカットアップしたエレクトロニカ音楽がアマチュアによって作られている。<br />
<br />
<br />
そもそも鳩羽つぐというコンテンツ自体が興味深い。<br />
<br />
情報を最小限にとどめることで観客の想像力を現在進行形で爆発的に引き立てつつある。<br />
<br />
「鳩羽つぐとはどういう存在か?」を一切明示することなく「鳩羽つぐは歯を磨き、外で写真撮影する」という<b>行動だけ</b>を示すことにより、類稀な「思わせぶり系ネットミーム」として成功している。<br />
<br />
思わせぶり系のネットコンテンツとしては、2ちゃんねる発のネットミーム「tanasinn」なんかも思い出される。<br />
(tanasinnの震源地となったサイトはリンク切れになり、<a href="http://web.archive.org/web/20100809014929/http://tanasinn.web.infoseek.co.jp:80/" target="_blank">魚拓サイトからしか参照できなくなった</a>。ページを開くと強制的に音声ファイルがダウンロードされるっぽいので一応注意。そして今気づいたが、明らかにFLASH動画「ゴノレゴ」の音声混じってるな…)<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://2.bp.blogspot.com/-UxcJinTxLZ0/WsWpXFf_9xI/AAAAAAAABH8/OaaoOb4OeFkwsRPKzi81UkaGQzbNlqXigCLcBGAs/s1600/tana.png" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="789" data-original-width="721" height="200" src="https://2.bp.blogspot.com/-UxcJinTxLZ0/WsWpXFf_9xI/AAAAAAAABH8/OaaoOb4OeFkwsRPKzi81UkaGQzbNlqXigCLcBGAs/s200/tana.png" width="182" /></a></div>
<br />
tanasinnでも事態は同様、「tanasinnとは何か?」という問いに対する答えにその性質が現れる。<br />
<blockquote class="tr_bq">
「tanasinnが何なのかを言葉ではっきりと説明する(●)∵∴きないが、しばしばシュールレアリズム的な雰囲気を伴う。」(http://dic.nicovideo.jp/a/tanasinn)</blockquote>
素性を隠すこと、唯一無二の雰囲気を身にまとうことにより、鳩羽つぐ/tanasinnは優れたネットミームとして拡散する。<br />
<br />
<br />
関連して、創作世界観「SCP財団」の一作品の着案材料として、彫刻家・加藤泉の作品が用いられ、SCPファンによって様々な形で経験、拡散されたことも挙げておこう。<br />
<br />
<table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto; text-align: center;"><tbody>
<tr><td><a href="https://4.bp.blogspot.com/-8KNPSOhjrWM/WsWxjG108cI/AAAAAAAABIU/cm3KbLwwBgASsFWzUC-XaKxznibdl2yUACLcBGAs/s1600/SCP-173.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" data-original-height="982" data-original-width="1200" height="163" src="https://4.bp.blogspot.com/-8KNPSOhjrWM/WsWxjG108cI/AAAAAAAABIU/cm3KbLwwBgASsFWzUC-XaKxznibdl2yUACLcBGAs/s200/SCP-173.jpg" width="200" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="font-size: 10.4px;">©加藤泉</td></tr>
</tbody></table>
<br />
このケースが面白いのは、現代アートとネットミームとの出会い(あるいは再開?)により、元々は一彫刻作品だったものがキャラクター化した点にある。<br />
<br />
これは流石に村上隆でも想像できなかった事態だろう。<br />
偶然の成すべきことやいかに。<br />
<br />
<table align="center" cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="margin-left: auto; margin-right: auto; text-align: center;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><img border="0" data-original-height="831" data-original-width="1017" height="163" src="https://4.bp.blogspot.com/-4Epw_mEcnJY/WsWwt77FY9I/AAAAAAAABIM/p_LHdmJTuFkpJrQJC3Eb-s7kh4jBzQvmQCLcBGAs/s200/173.png" style="margin-left: auto; margin-right: auto;" width="200" /></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">pixivユーザーによる「二次創作」がなされた彫刻作品は本作が世界初ではないだろうか。</td><td class="tr-caption"><br /></td><td class="tr-caption"><br /></td></tr>
</tbody></table>
<br />
現代アートが具現化する架空の生命のようなものが、その素性を明らかにすることはそうそうない。<br />
<br />
それゆえ、現代アートとネットミームとはそもそも親和性が高いと言えるだろう。<br />
<br />
tanasinnにどこか現代アート的、シュルレアリスム的雰囲気を感じたとすればそれも偶然ではあるまい。<br />
<br />
<br />
とうに過去の遺物となったtanasinnはさておき、今は今を注意しておきたい。<br />
<br />
鳩羽つぐはこれからどのような展開を見せるのだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<u>おまけ</u><br />
<br />
「思わせぶり系」動画職人としてはぴろぴと氏が好き過ぎるので貼っておきます。観ましょう。<br />
<br />
<br />
<script src="https://embed.nicovideo.jp/watch/sm12285123/script?w=459&h=344" type="application/javascript"></script><noscript><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm12285123">クッキンアイドル</a></noscript>
<br />
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="344" src="https://www.youtube.com/embed/nd5jpVLJGWg" width="459"></iframe>
omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-28142843201615131872018-04-03T18:57:00.000+09:002018-04-03T18:57:08.583+09:00外国語の憂鬱今年も科目登録の時期が来てしまった。<br />
本当に僕は大学院から無事退院できるのだろうか。<br />
<br />
<br />
しばらく大学から離れている内に外国語の学び方が行方不明になってきたので、<br />
「<a href="https://www.multilingirl.com/2015/10/blog-post_29.html" target="_blank">アラビア語とロシア語をマスターすると見える世界</a>」<br />
を読んだ。<br />
<br />
結局どういう世界が見えてくるのかは良く分からなかったが、筆者のユニークな学習プロセスが事細やかに紹介されていてとても参考になる。<br />
<br />
<br />
【これから読む】<br />
<a href="http://www.mediaculture.fr/reseaux-sociaux-comment-lhyper-socialisation-accentue-la-division/" target="_blank">Réseaux sociaux : comment l’hyper-socialisation accentue la division</a><br />
<br />
フランス語でIT系の文章は中々見つからないのだが、<br />
http://www.mediaculture.fr/<br />
に最新技術に感度の高い系のテクストが量産されてるみたいなので、おフランスのデジタルコミュニケーション事情を知るにはかなり重宝しそう。<br />
<br />
大学に「コミュニケーション専攻」みたいなコースもある国だし、リサーチの中で日本とは違った事情が覗けることを期待したい。omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-19633102171049264652018-04-02T22:11:00.000+09:002019-01-13T22:26:27.059+09:00世間のUI/UXデザイナー、KPI脳に侵され過ぎじゃない?深津貴之氏の<br />
<a href="https://note.mu/fladdict/n/n5bd686857419" target="_blank">Adobe Summit 2018の新技術まとめ</a><br />
を読んだ。<br />
<br />
webマーケティングが目指す「問題解決」というスローガンは、一つの問題が解決されると同時に新たに生じる問題に目を塞いでいるからこそ軽々しく口に出来るマジックワードなのだろう。<br />
web業界をしばらく調べている間に、そう考えるようになった。<br />
<br />
なので、Adobeが人工知能やら機械学習やらを活用した結果生まれたのがwebマーケティングサービスとは、正直残念に思える。手詰まりなのだろうか。omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-83421493728695938312017-01-14T04:15:00.002+09:002020-06-27T11:57:14.696+09:00pdfをそのままePubに変換し電子書籍を作る<div>
<b><a href="https://chitomolog.hatenablog.com/entry/2020/06/27/114726" target="_blank"><span style="background-color: red; color: white;">本記事は2017年の記事であり、少し古い内容となってます。</span></a></b><br />
<a href="https://chitomolog.hatenablog.com/entry/2020/06/27/114726" style="background-color: red;" target="_blank"><b><span style="color: white;">2020年の</span></b><b><span style="color: white;">最新版は新しいサイトに掲載しています。</span></b></a><br />
<span style="color: red; font-size: medium;"><a href="https://chitomolog.hatenablog.com/entry/2020/06/27/114726"><b>https://chitomolog.hatenablog.com/entry/2020/06/27/114726</b></a></span><br />
<span style="font-size: large;"><br /></span>
<span style="font-size: large;">-----</span><br />
<span style="font-size: large;"><br /></span>
<span style="font-size: large;">編</span>集に関わっている同人誌がついに電子書籍化に踏み出したので、電子化手続きの中でも最大の関門、固定レイアウト型でpdfをepubに変換する方法を片っ端から試してみました。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
「pdf epub」でググると大量にそれっぽいページがヒットするわけですが、その大多数はアフィリエイト目的で作られたおざなりなサービスであるという地獄が現代のネットランドスケープです。</div>
<div>
勿論英語圏中国語圏のユーザー向けのきちんとしたサービスかもしれないですが、日本語で、それもご丁寧に.jpのドメインまで取得しているにも関わらず、日本語ファイルを投げたら豆腐文字になって帰ってくるのには流石に文句言っても良いのではないでしょうか。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
この手のサイトは今後も増え続けていくことだろうけど…。</div>
<div>
<br />
<br /></div>
<div>
余計な情報は要らない、どうすればpdfからePubを作れるか手っ取り早く知りたい方は一番下までスクロールして下さい。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
それでは斬って参ります。</div>
<div>
<br />
<a name='more'></a><br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
1.<a href="http://toepub.com/ja/" target="_blank">To ePub</a><span id="goog_1372261850"></span><span id="goog_1372261851"></span><a href="https://www.blogger.com/"></a></div>
<div>
<a href="http://toepub.com/ja/">http://toepub.com/ja/</a></div>
<div>
サイトにpdfデータをアップロードするだけでepubに変換してくれるサービス。</div>
<div>
容量制限のため表紙ページ(120MB)アップロード出来ず。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
追記:wordファイルを元に作成したpdfで試したところ日本語は全て文字化け。</div>
<div>
<br /></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: justify;">
<a href="https://1.bp.blogspot.com/-Lm8-zeu_CVc/WHkE4sLjsbI/AAAAAAAAAf4/3_RArTSg_Wch2CMc2AGqACkx_u83rHeawCLcB/s1600/Image.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" height="140" src="https://1.bp.blogspot.com/-Lm8-zeu_CVc/WHkE4sLjsbI/AAAAAAAAAf4/3_RArTSg_Wch2CMc2AGqACkx_u83rHeawCLcB/s200/Image.png" width="200" /></a></div>
<div style="text-align: left;">
(変換後のファイルをadobe digital editionsで開いたところ)</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
2.<a href="http://calibre-ebook.com/download" target="_blank">Carib</a><span id="goog_1372261839"></span><span id="goog_1372261840"></span><a href="https://www.blogger.com/"></a></div>
<div>
<a href="http://calibre-ebook.com/download">http://calibre-ebook.com/download</a></div>
<div>
無料ソフト。</div>
<div>
固定レイアウトに変換しようと試したが崩壊したepubが出力された。</div>
<div>
一応wikipediaにも項が設けられたソフトなので、画像が少ない文字主体のpdfなら出来たかも。</div>
(参考ページ)<a href="http://webmemo.biz/pdf-epub">http://webmemo.biz/pdf-epub</a><br />
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
3.Renee PDF Aide</div>
<div>
<a href="http://www.reneelab.jp/pdf-epub-free.html">http://www.reneelab.jp/pdf-epub-free.html</a></div>
<div>
無料ソフト。変換自体は成功するみたいだが、肝心の出力されたファイルがどこにも見付からない。PC全体で検索をかけても見つからず。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
4.<a href="https://convertio.co/ja/pdf-epub/" target="_blank">Convertio</a></div>
<div>
<a href="https://convertio.co/ja/pdf-epub/">https://convertio.co/ja/pdf-epub/</a></div>
<div>
アップロード型。固定レイアウト変換不可。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
追記:wordファイルを元に作成したpdfで試したところ、緑色のグラデーションが美しい現代アートが出力されました。</div>
<div>
<br /></div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">
<a href="https://3.bp.blogspot.com/-57Eyx4iEJHI/WHkE5od_WoI/AAAAAAAAAf8/DGm35oNT7tc38IRnSkqq-FdTGPPvrK1dQCLcB/s1600/Image2.png" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" height="125" src="https://3.bp.blogspot.com/-57Eyx4iEJHI/WHkE5od_WoI/AAAAAAAAAf8/DGm35oNT7tc38IRnSkqq-FdTGPPvrK1dQCLcB/s200/Image2.png" width="200" /></a></div>
<div>
(変換後のファイルをadobe digital editionsで開いた画面)</div>
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<br /></div>
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5.でんでんコンバーター</div>
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<a href="http://conv.denshochan.com/">http://conv.denshochan.com/</a></div>
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アップロード型。</div>
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固定レイアウト向けではないとは思いつつ試してみると、アップロードの時点で受領してくれませんでした。</div>
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6.Romancer(ボイジャー社)</div>
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<a href="https://romancer.voyager.co.jp/">https://romancer.voyager.co.jp/</a></div>
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結論から言うと出来ました。</div>
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: left;">
<a href="https://1.bp.blogspot.com/-avQSYxCaNO4/WHkExRvwKvI/AAAAAAAAAf0/NPljucFeUy0JdVelNOMViCVrvTM5t5pYACLcB/s1600/%25E7%2584%25A1%25E9%25A1%258C.jpg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="153" src="https://1.bp.blogspot.com/-avQSYxCaNO4/WHkExRvwKvI/AAAAAAAAAf0/NPljucFeUy0JdVelNOMViCVrvTM5t5pYACLcB/s320/%25E7%2584%25A1%25E9%25A1%258C.jpg" width="320" /></a></div>
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<br /></div>
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手順は簡単。会員登録(無料ですがひと月ごとに容量制限があります。500円で拡張可能)をして、ログインした後ダッシュボードを開けばwordpressベースの管理画面が表示されます。</div>
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そこから「新規追加」を押してpdfをアップロードし、表紙や目次など諸々の必要情報を入力し最後に「変換」ボタンをクリックする。</div>
<div>
それだけで、固定レイアウト型のepubを出力してくれます。この素晴らしさ。</div>
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<br /></div>
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ノイズに溢れた中でこれだけ簡潔でサービスをweb上に、それも誰もがアクセス出来るように提供するなんて、私のようなアマチュア編集者達にとってはかなりの衝撃ではないでしょうか。</div>
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そこの貴方、サクラだとか指ささないで。</div>
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ともあれ、pdfからePubは作れます。電子書籍は作れます。</div>
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私はこれから有料会員になるか他の方法もトライしてみるか考えてるところです。電子出版にご関心ある方は、僅か15分なのでRomancerで作ってみてはどうでしょうか。</div>
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omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-28453110554078796632017-01-06T00:54:00.002+09:002017-01-21T05:16:29.114+09:00視覚/死角の映画 ― アピチャッポン・ウィーラセタクン『光の墓 รักที่ขอนแก่น』<span style="font-size: large;">新</span>年早々、実家から東京に戻って来てすぐ映画館に足を運んだ。表参道のシアター・イメージフォーラム。話題になっていた『この世界の片隅に』も選択肢に入っていたが、茫として流行りを追う気持ちでもなく、イメフォでアピチャッポンのアンコール上映がされていることを知ると直ぐにそちらになびいていった。<br />
<br />
丁度一年前の同じ月に始まった企画、「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」で観た『トロピカル・マラディ』では、広大無辺な闇に包まれた熱帯林の中での恍惚なトランス状態を、映像を通して味わうことができた。「ただの映像だよ」と冷たく突き放して俯瞰する態度とは決定的に異なり、<b>アピチャッポン・ウィーラセクタンは我々が「映像」と呼ぶものを「光」と解釈し、映画の別なる相貌を露にさせようとしている</b>ように思われる。《Syndromes and a Century》(2006)と《Cemetery of Splendour》(2015)をそれぞれ『世紀の光』と『光の墓』と訳したのは、良い意味での原題に対する裏切りになったのではあるまいか。<br />
<br />
<a name='more'></a><br />
<br />
<br />
<span style="font-size: large;">『光</span>の墓』は、不可視なものについての逆説的な映画である。病院で眠り続ける元軍人たち、両脚の長さが不均等な介護ボランティアの女性、眠る男たちを通して死者と交信する若い女性。起きている事態は異常なのに、そこに深刻さや暗さは顔を見せない。それが日常の一部であるかのように映画は淡々と進行する。<br />
<br />
唐突に挟まれるダンス・シーケンスは例によって相変わらずだが、『世紀の光』でも見られた「人工物の神秘化」もまた本作でちらほら見受けられる。病室に設置された、青赤緑とゆっくり色を移ろわせる電灯は、同一空間をして複数の様相があり得ることを顕にする。その変化を捉えるカメラが、ショッピングモールの照明も同様にフォーカスすることも理にかなっている。ネオンライトに彩られることで日常空間は祝祭空間と化し、生と死の境界に朦朧とした意識が接触する。そこでは見えるモノ(例えば人間の褐色の肌)が見えなくなり、見えないモノ(彩色された肌)が見えるようになる。<br />
<br />
あるいは、死者と交信する女に焦点を当てても良い。彼女は寝たきりの病人に触れ、彼に関わる死者のビジョンを「観る」。それを看護婦に「語る」。(にしても、こうして数時間前に観た映画について乏しい語彙をやり繰りして語ろうとする私自身が、彼女のような「交信者」なのではないかと考えると可笑しい気持ちになる) <br />
<br />
彼女の言葉に耳を傾ける人々も、我々観客も、見えないモノを言葉を通して想像することしか出来ない。視覚の前で流れる映像とは違う映像が、死角に隠れて流れているのだ。<br />
<br />
<b>複数の流れが並行していて、どちらかを見るともう片方が見えなくなる</b>。病院の下深くに眠るとされる古代の国王の墓は、そうしてその姿を現さないまま映画は終わる。<br />
<br />
<br />
<a href="http://huomaaa.blogspot.jp/2016/12/blog-post_21.html" target="_blank"><span style="font-size: large;">プ</span>ラープダー・ユン</a>にしてもそうだが、タイの作家の「自然」へのこだわりには並々ならぬものが感じられる。この映画の中で確認される「事件」は、食事中に意識を失い料理が残った皿に頭を墜落させる男と、子どもを連れて勝手気ままに病院を彷徨する鶏、それから3人の女性に囲まれて寝ている最中にペニスを勃起させる兵士ぐらいである。人間の意識が遮断している時にこそ、目を見張る事件が起きる。いや、意識が遮断する時に起こる事件を逃さず捉えようとしている、と言った方が正しい。『世紀の光』で、病院という空間が神秘的、聖的な容貌を露にする瞬間を捉えてみせた時も、レンズに人間の姿は映されず、医療器具という「人工」の極限が一巡して「自然」と重なる瞬間を演出してみせていた。<br />
<br />
ひょっとすると、人工に対するものとして自然を仮定する思考回路は、彼らの作品を読解するツールとしては力不足かもしれない。この「訳の分からない触感」は大切にしておきたい。<br />
<br />
<br />
P.S.<br />
この記事を書いた後日、写真美術館のアピチャッポン展図録を読むと、まんま「映像の不可視性」というタイトルでアピチャッポンによる原稿が載せられており、外れてはないにしろ凡庸な読みだったことを反省している。<br />
<br />
<br />
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omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-31941575448292677392016-12-25T23:24:00.000+09:002017-01-22T05:44:24.930+09:00海の向こうの挑発――曺 泳日『世界文学の構造』(訳:高井修)<div>
<span style="font-size: large;">木</span>を観て森を観ることは難しい。プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち」の翻訳が、ポストモダンというキーワードで日本のポストモダンを相対化する賭けだとするなら、曺泳日(ジョ・ヨンイル)の『世界文学の構造』は韓国における昨今の「世界文学ブーム」を色眼鏡に日本の近代文学を、そしてそこから連綿と続く「現代日本文学」を相対化する投石だと言える。そして、その試みは小説技巧やテクスト理論に志向しがちな諸作品が、<b>社会の潮流に流されるまいと引き籠ることでまさに社会の潮流に流されていることに盲目になる</b>様をあからしめることに成功している。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">「世</span>界文学の構造」という題が冠せられているものの、我々日本語読者にとって最もスリリングなポイントは、第二章で論じられる日露戦争と夏目漱石、そして「国民作家」の不可分な繋がりについてだろう。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">漱</span>石の話が出てくる文脈は以下の通り。韓国のある劇作家は、2010年当時の総理大臣を批判する際に、同国における読書文化・活字文化の乏しさこそが現職の「釈然としないことが繰り返し出てくる『タマネギ総理』」を輩出し、そのため経済状況も苦しいままであるというロジックを展開した。つまり彼の主張を整理すると、読書文化に投資を行うことでコンテンツ(文学)産業が発達する、それによって経済が豊かになるというのである。</div>
<div>
<br />
<a name='more'></a><br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">し</span>かしこの劇作家は、今批判の矛先を向けている当の総理大臣こそが、まさに書物と読書教育の投資によって完成した人間であるという事実に気付いていないか、あるいは無視を決め込んでいる。</div>
<div>
<i><br /></i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「遠回りした感が否めませんが、ここで言いたいのは次のようなことです。はたして読書文化、そしてその中核である近代文学(小説)の発展の度合いが、特定地域の文化水準を担保する客観的な基準となりうるのかということです。」(p.41)</i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<br /></div>
<div>
人文学の危機だとか、補助金の削減だとかに断固反対の声を絶やさない界隈にいる人間としては、早速ながらも非常に耳の痛い話です。外部からどころか内部からでさえ拒絶の憂き目にあう「文学」。(とはいえそうやってカンブリア大爆発の如き多様な表情を創り出して現代に至るのが「芸術」ではありますが。) なお、補論にも柄谷行人を引用して、日本のオーバードクター問題を他人事ではない韓国のそれに突き付けてもいます。</div>
<div>
<i><br /></i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「伝統芸能ならともかく、文学を助成金で維持して何になるのか。生活できなくても、おれは文学をやるぞ、という人がいれば、文学は残る。だから、ほうっておけ、と僕は思います。」(柄谷行人『柄谷行人インタヴューズ 2002-2013』、p.116-117)</i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">こ</span>うした反ヒューマニティーズのトーンが終始漂っているわけですが一旦閑話休題、韓国文学の話に戻りましょう。上記の劇作家の批判から、ロジック自体の正誤はさておき、自国文学に対する否定的な見解、すなわち「フランスやドイツ、はたまた日本のように、韓国で近代文学が発展しなかったのは何故か?」という問題意識を窺うことが出来る。そこから、日本という国が生んだ作家として分析対象になるのが夏目漱石である。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">な</span>ぜ夏目漱石は国民作家となり得たのか。日本と韓国を分かった最大要因、ジョ・ヨンイルはそれを<b>「物語を発動させる原動力(ユートピア)として、植民地を持った経験」の有無</b>の中に見出す。つまり、日露戦争における勝利こそが夏目漱石を夏目漱石たらしめたのである。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">日</span>露戦争後に満韓を訪れた夏目漱石の手記を紐解き、戦勝が如何に作家を鼓舞したかが次々に論拠付けられていく。歴史とは必ず勝者の歴史である、と良く言われる話だが、これを文化・文学・芸術に置き換えても異存はあるまい。ジョ・ヨンイルはさらに、ナポレオンとロシア文学、トルストイとその周辺作家を結び付けて、西欧においても近代文学は戦後文学として発展したことを指摘する。そこから司馬遼太郎の両義的な評価に繋がるジェットコースター感が非常に刺戟的なのだが、紙幅が尽きそうなので後は是非書店で手に取って読んでもらいたい。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">そ</span>れにしても、これほどまでに人文学を丸裸にする本が海の向こうからやって来たことを寿ぐべきか、呪うべきか、私は正直なところ戸惑っている。著者の主張の一つは、文学以外の他の分野の需要と供給は「神の見えざる手」、つまり市場原理に任せるのが普通なのに、人文学・文学産業に関してはそうした調整を受けていないことが不思議でならない、という提言です。人文学の価値は数値化できないところにある、という見解はおそらく著者も私も共有していることだと思いますが、数値化できないが故にその評価は常に過多か過少かに振れ切ってしまうのでしょう。著者も彼が引用する柄谷行人も、人文学はなすがままにせよと主張する。だが、問題は彼らがどの立場からそう主張し、どの位相のグループにその言葉を向けているかが不明瞭な点ではないでしょうか。</div>
<div>
<br /></div>
<br />
<div>
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: large;">蛇</span>足になりますが、これからの韓国文学を進ませるべく、彼ら韓国人が補うべきものとして「「経験」(日文学性)の拡張」を著者が挙げていたのが興味深かった。トルストイが文学を離れて教育と貧民救済運動に参加し、その「経験」を踏まえて『芸術とはなにか』が書かれたことを念頭に置いていたのは間違いないでしょう。東浩紀もどこかで語っていた、イベントと飲み会はセットでなければならないという話に通じており、国を越えても同じ問題意識が共有されていることは興味深く思えました。<br />
<br />
<br /></div>
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omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-54448791253870586982016-12-24T00:18:00.000+09:002016-12-27T04:38:18.708+09:00ノイズそして水墨画――戸田ツトムとアニメーション作家のdesign0.目次<br />
<span style="font-size: x-small;"> 1.戸田ツトム経歴</span><br />
<span style="font-size: x-small;"> 2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」</span><br />
<span style="font-size: x-small;"> 3.コンピュータ、ノイズ、水墨画</span><br />
<span style="font-size: x-small;"> 4.ノイジー・アニメーション――Ian Cheng、David OReilly</span><br />
<div>
<br /></div>
<div>
<h4>
1.戸田ツトム経歴</h4>
</div>
<div>
・戸田ツトム</div>
<div>
1951年生まれ。桑沢デザイン研究所での松岡正剛との出会いをきっかけに、1973年から5年ほど工作舎で活動、その後独立。『MEDIA INFORMATION』、『ISSUE』『WAVE』『GS』など80年代雑誌で独自のスタイルを築き上げる。杉浦康平の文体を引き継ぎつつ、アンチパターンとも呼べるノイズ的空間処理を行った。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<h4>
2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」</h4>
</div>
<div>
彼のデザイン思想におけるキーワードが「ノイズ」の概念です。ノイズを単に情報を阻害するものとしてではなく、逆に情報を生産するものとして実作に応用したことが「思索するデザイナー」と彼が呼ばれる所以でしょう。<br />
<br /></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「何の意味も」読み取れないこの像がヒトの眼球視像より多くの情報量を持っているのだとしたらヒトの営為にとって、情報量の増加とはでたらめさ、あるいは雑音以外の何物でもない。逆に言えば、風景の中に意味を見出すということは、先のいくつかの――といってもそれだけで膨大であるが――厳しい厳しい制限と抑止力を知覚に与えて、できるだけ多くの情報に直接触れないように人体を保護し、外界からの光や情報といった刺戟の大部分を防去するということなのだ。」(戸田ツトム『断層図鑑』(1986年、北宋社)、p.39)</i><br />
<i><br /></i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「いずれにしても輪郭が形成される前・事態には状態が一様ではないことの段差、断絶、密度変化などの動因力が機能していることが判る。私はつい最近までこういった兆候へ変移する運動を引き起こす何らかの因子を「ノイズ」と諒解していた。六章までに頻出するノイズというボキャブラリーは大体この周辺の事情を指している。つまり、ほかならぬメディア――触媒――ということであった。」(同書、p339)</i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<br /></div>
<div>
<br />
<a name='more'></a>また、「ミョウバン液と結晶」の美しい比喩を以ってノイズ(ここでは「<i>もうひとつ別の作用</i>」とパラフレーズされてる)を語ってもいます。</div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i><br /></i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「結晶の成長にあたっては極めて結晶的でないもうひとつ別の作用が必要なのである。グラフィック・デザインにおける図形操作のプロセスとはそのようなものである。図形、輪郭の生成過程あるいは認識のプロセス――(中略)――においてミョウバン液や結晶全般の成長と同じような関係構造が窺われるのである。」(同書、p.340)</i></div>
<div>
<br />
<span style="font-size: x-small;"><br /></span></div>
<div>
<span style="font-size: x-small;">cf.</span><br />
<span style="font-size: x-small;">・シャノンの情報理論…「『可能な符号列の数の対数値』を情報の測度とする」</span></div>
<div>
<span style="font-size: x-small;"> 「一般にある文字の出現確立をPとすると、それが送られたときの情報量は『-log P』で与えられる。」(西垣通『情報基礎学』(2004年、NTT出版)p43)</span></div>
<div>
<span style="font-size: x-small;"> ex.出現確立の高い「e」より、出現確立の低い「q」の方が情報量が大きい。</span></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<h4>
3.コンピュータ、ノイズ、水墨画</h4>
</div>
<div>
・『電子図像誌 黄昏の記述』(1994)解題</div>
<div>
初期PCで制作したグラフィック・デザインの大判画集。水面の中の水面、消失点が複数ある「n点透視図法」など、西洋絵画的な線遠近法をハックしたビジュアル。現実と無関係なオブジェと写真を組み合わせたグラフィックデザインがここで現れます。同時期に彼がMacintoshの画面に覚えた奇妙な空間感覚との関連で語ることは的外れでもないでしょう。</div>
<div>
<br /></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「様々な視角、あらゆる遠近法が混在する異常な空間概念の出現である。/厚みのある、概念なのか立体なのか不明の挙動をする平面空間・正面からの一点透視図法に似たディスク関連のアイコン・街角や机に置かれたような右上45度からのフォルダやごみ箱・マウス動作の軌跡が、背後の絶対平面に描かれたにもかかわらず最上面を通過するマウス…」(戸田ツトム『電子思考へ……』、p.77)</i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i><br /></i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「白と黒のみがたどたどしく再現しようとするビジュアル世界は恐ろしく乏しいものだった、しかし文字・絵や図形、押すとカサッという柔らかい感触の残るキー、距離感のない紙のようなディスプレイ…コンピュータの中や周辺に生起する出来事のすべてが、視覚的ではなく形象の不明瞭な、深いハーフトーンの質感に彩られた体験に満ちていた。</i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i> その空間感覚にイスラム主義的な『明るい夜・形象の消える黄昏時』や中国宋代の山水世界を読み取ったユーザーが数人いた。その内の一人の天才的プログラム・デザイナーが結局、Mac Paintというビル・アトキンソン設計になるこれまた白と黒だけのプログラムをベースにして、書道用のツールをリリースするという驚くべき離れ業を行っていた、この時代(80年代後半)に知り合った多くの米国西海岸デジタル・デザインの関係者のほとんどがこの『Mac書道』を知っていた。」(戸田ツトム『電子思考へ……』(2001年、日本経済新聞社)p.30 )</i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<br /></div>
<div>
PC画面を言語化するために引き合いに出すものが「イスラム主義」や「中国宋代の山水世界」という点が興味深い。戸田ツトムに限らず、こういうのはコンピュータを産み出した西洋世界においても顕著です。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』やフィリップ・K・ディック『高い城の男』等のサイバーパンクに、ウザいほど東洋的モチーフがいくつも出てくるのも、西洋人にとってさえ宇宙人的存在な電子テクノロジーが日常に侵入した時に「西洋的な語彙では語れない」とアタフタした結果、東洋的な言葉が無理やり当てつけられたのではないか。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
また、他のテクストでは水墨画とのアナロジーが頻出しています。観たものをそのまま紙に描くのではなく、「磁場」のようなものを「受信」して筆を下ろす。水墨画は電磁波である。「ホントかよ」とツッコミたくなるところですが、我らが戸田先生が言っていることなので引用します。<br />
<br /></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「これ(ブラウン管)は隅から隅まで均一な画面ですからその画面に何をどう置こうと自由なんです。ですからレイアウトは白い壁にシミを恣意的にくっつけてしまうようなやり方をとらざるを得ない。つまり雪舟が岩の表情を空中に浮かびあがらせたようなソフトアイ的手法をとる。あるいは中国の宋の時代の水墨画家が、筆を使わず髪をふりみだして絵を描いた方法に近いのではないか。水墨的自動描法みたいなものでしょう。」(竹原あき子「エディトリアルデザインの現場から…戸田ツトムの仕事を解読する」、『SD』(311)、鹿島出版会、1990年8月)</i><br />
<i><br /></i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<i>「[電波源]などの図像 (存在しないかもしれないが認識できる対象。電磁波を残して消滅した星など)と水墨画の間には、先ほど言ったようによく似た印象がある。つまりそれらにはどれも場の緩やかな設定があってこその中に図が滲み出てくる、ということです。(中略)水墨画の濃淡つまり水量と墨章によって展開される朦朧、あのグレートーンの波がおしよせるか、あるいはグレートーンの霧に幾重にもとりまかれているかに思わせる墨の多様性は単なる表現技法としての濃淡ではない。あれは場が持っている潜在能力の横溢をあらわし、その分布図でもあるわけです。」(竹原)</i></div>
<div>
<br /></div>
<div>
ということで、水墨画をじっと見つめていると、近年湯水の如く生産されているインフォグラフィックスに見えてくるのではないでしょうか…?(大胆な仮説)</div>
<div>
<span style="background-color: white; color: #333333; display: inline; float: none; font-family: sans-serif; font-size: 20px; font-style: normal; font-weight: normal; letter-spacing: normal; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; word-spacing: 0px;"></span><br />
<a href="https://3.bp.blogspot.com/-W7EKE0-4HZM/WF08bqv5v_I/AAAAAAAAAds/DcfA_wdM2kkEQF-K3Vff2XIuuu2lejPZQCLcB/s1600/syousyunzu_main.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; display: inline !important; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" height="200" src="https://3.bp.blogspot.com/-W7EKE0-4HZM/WF08bqv5v_I/AAAAAAAAAds/DcfA_wdM2kkEQF-K3Vff2XIuuu2lejPZQCLcB/s200/syousyunzu_main.jpg" width="136" /></a> <a href="https://3.bp.blogspot.com/-fcpnS0YCapc/WF08sxCHlqI/AAAAAAAAAd8/qUB29v9RHS0MCBdbiblUygcqqtYdmc5_gCLcB/s1600/sesh_002.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="https://3.bp.blogspot.com/-fcpnS0YCapc/WF08sxCHlqI/AAAAAAAAAd8/qUB29v9RHS0MCBdbiblUygcqqtYdmc5_gCLcB/s200/sesh_002.jpg" width="128" /></a><br />
<div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<br /></div>
左図:『秋冬山水図』、京都、 雪舟(1420-1506頃)</div>
<div>
右図:『早春図』(1072)、北宋、郭熙(1020-1090)</div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://4.bp.blogspot.com/-h_q_-W8Sh7A/WF08i_LnJHI/AAAAAAAAAd0/I-fhsABW6kA9CWHIlpAmRFgRoC6H0OJxQCLcB/s1600/2.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="https://4.bp.blogspot.com/-h_q_-W8Sh7A/WF08i_LnJHI/AAAAAAAAAd0/I-fhsABW6kA9CWHIlpAmRFgRoC6H0OJxQCLcB/s200/2.jpg" width="149" /></a></div>
<a href="https://4.bp.blogspot.com/-F8S1z2EngYA/WF08khCbIGI/AAAAAAAAAd4/ChNDudbuP0gvW7xZgvFjQsACWmnzdenpACLcB/s1600/1.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; display: inline !important; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em; text-align: center;"><img border="0" height="183" src="https://4.bp.blogspot.com/-F8S1z2EngYA/WF08khCbIGI/AAAAAAAAAd4/ChNDudbuP0gvW7xZgvFjQsACWmnzdenpACLcB/s200/1.jpg" width="200" /></a></div>
<div>
<span style="color: #333333; font-family: sans-serif; font-size: 20px;"><br /></span>
<br />
<span style="color: #333333; font-family: sans-serif;">『時間のヒダ、空間のシワ・・・[時間地図]の試み 杉浦康平ダイアグラム・コレクション』</span></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<h4>
4.ノイジー・アニメーション――Ian Cheng、David OReilly</h4>
</div>
<div>
最後に、コンピュータのビジュアル、およびCGにおけるノイズ的手触りをそのままにして作品制作を行っているアーティストを二人紹介しましょう。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
・Ian Cheng</div>
<div>
『ハーフライフ』や『DOOM』など、テレビゲーム制作でも使われるゲームエンジンを使った映像制作を行っています。画面内で動く3Dモデルはそれぞれ自律して行動を選択し、作家の手を離れた「イベント」が次々に引き起こされることが特徴です。<br />
<br /></div>
<div style="text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="203" mozallowfullscreen="" src="https://player.vimeo.com/video/74466694?color=ffffff&byline=0&portrait=0" webkitallowfullscreen="" width="360"></iframe></div>
<div>
<div style="text-align: center;">
《Thousand Islands Thousand Laws》(2013):<a href="https://vimeo.com/74466694">https://vimeo.com/74466694</a><br />
<br /></div>
</div>
<div style="text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="203" mozallowfullscreen="" src="https://player.vimeo.com/video/100209830?byline=0&portrait=0" webkitallowfullscreen="" width="360"></iframe></div>
<div>
<div style="text-align: center;">
《ewCloud》(2013):<a href="https://vimeo.com/100209830">https://vimeo.com/100209830</a></div>
</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<span style="font-size: x-small;">cf.</span></div>
<div>
<span style="color: black; font-size: x-small;">"THE CYBORG ANTHROPOLOGIST: IAN CHENG ON HIS SENTIENT ARTWORKS"</span></div>
<div>
<a href="http://www.artnews.com/2016/03/31/the-cyborg-anthropologist-ian-cheng-discusses-his-sentient-art-works/"><span style="font-size: x-small;">http://www.artnews.com/2016/03/31/the-cyborg-anthropologist-ian-cheng-discusses-his-sentient-art-works/</span></a></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
・David OReilly</div>
<div>
1985年、アイルランド、キルケニー生まれ。現在ロサンゼルスで制作活動を行っています。<br />
<br />
<br /></div>
<div>
<div style="text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="203" mozallowfullscreen="" src="https://player.vimeo.com/video/62087014" webkitallowfullscreen="" width="360"></iframe><br />
《RGB XYZ》(2007)"<a href="http://www.davidoreilly.com/#/rgb-xyz/">http://www.davidoreilly.com/#/rgb-xyz/</a>"</div>
<br />
<br /></div>
<div style="text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="203" mozallowfullscreen="" src="https://player.vimeo.com/video/3388129" webkitallowfullscreen="" width="360"></iframe></div>
<div>
<div style="text-align: center;">
《Please say something》(2008)”<a href="http://www.davidoreilly.com/#/please-say-something/">http://www.davidoreilly.com/#/please-say-something/</a>”</div>
</div>
<div>
<br />
<br /></div>
<div>
短編アニメーションは特に文章化されることの少ない領域でありますが、デヴィッド・オライリーは貴重にも「アニメーション基礎美学」というタイトルで制作を理論化した文章を発表しています。そして土居伸彰氏による翻訳もネットで読むことができるので、アニメーションに関心のある方は山村浩二氏のAnimations Creators & Critics(<a href="http://www.animations-cc.net/">http://www.animations-cc.net/</a>)で読むと良いでしょう。(他の批評文等も充実しています)</div>
<div>
<br /></div>
<div style="margin-left: 40px;">
「 <i style="-webkit-text-stroke-width: 0px; color: black; font-family: "MS PGothic"; font-size: small; font-variant-caps: normal; font-variant-ligatures: normal; font-weight: normal; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px;">「ある現象が芸術作品のなかで真なるものとして創造されるのは、作品の内的なつながりが生命体の構造全体を再構築するよう試みられたときである。」(アンドレイ・タルコフスキー)</i></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<br style="-webkit-text-stroke-width: 0px; color: black; font-family: "MS PGothic"; font-size: small; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-variant-ligatures: normal; font-weight: normal; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px;" /></div>
<div style="margin-left: 40px;">
<span style="color: black; display: inline; float: none; font-family: "ms pgothic"; font-size: x-small; font-style: normal; font-weight: normal; letter-spacing: normal; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; word-spacing: 0px;"> 私が強く信じていることがある――美学の鍵は一貫性にある。3DCGアニメーションにおいては本質的に、世界のモデルを人工的に構築することになるが、私はこう主張したい――その作品世界が信じうるものとなるか否か、それは、どれだけの一貫性があるかということだけにかかっている。あらゆる要素が、それらを支配する一連の法則のうちに結びつけられているかどうか。この一貫性は、セリフ、デザイン、音、音楽、運動……作品のあらゆる領域へと広がっていく。それらの要素が一体となることで、「私たちが見ているものは本当なのだ」ということを確信させるフィードバック的なループが生み出されるのだ。</span>」(デヴィッド・オライリー「アニメーション基礎美学」(2009)、訳:土居伸彰、URL:<a href="http://www.animations-cc.net/criticism/c014-basicanimation01.html">http://www.animations-cc.net/criticism/c014-basicanimation01.html</a>)</div>
<div>
<br /></div>
<div>
現実に参照物をもたない3Dモデルによる統一性のある世界を構築する、そうすることによって「その作品世界は信じうるものとなる」。この美学理論は逆に、<b>アニメーションの中に描かれることは現実ではないのだから何でもアリ</b>という答えにさえ行き着きます。それが近年、日本の短編アニメーション上映会でもしばしば取り上げられるナンセンス・アニメーション、《The External World》として具現化しているのではないでしょうか。</div>
<div>
<br />
<br /></div>
<div>
<div style="text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="203" mozallowfullscreen="" src="https://player.vimeo.com/video/19723116" webkitallowfullscreen="" width="360"></iframe></div>
<div style="text-align: center;">
《The External World》(2011)”<a href="http://www.davidoreilly.com/#/the-external-world/">http://www.davidoreilly.com/#/the-external-world/</a>”</div>
</div>
<div>
<br /></div>
<div>
講義の中で、この作品との比較として《サウスパーク》が挙げられました。確かに、ナンセンス作品として観ればこれら二作品をはっきり区別し得る特徴を私は見出せていません。ナンセンスさの質を比較する仕事はまた別の機会に任せましょう。戸田ツトムが言う液晶モニタの手触り感、それを追究しているのはエディトリアルデザイナーではなくアニメーション作家やアーティストだという現状を展望するにあたって本稿を締めようと思います。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
<br /></div>
<div>
<div>
<div style="text-align: right;">
(本稿は院ゼミで使ったレジュメをweb用に加筆修正したものです)</div>
</div>
</div>
omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-74416541354288676672016-12-23T01:07:00.003+09:002016-12-23T03:22:20.358+09:00【講演会メモ】「真言−翻訳−黄昏 吉増剛造の〈現在〉」(於早稲田大学戸山キャンパス)第1部ジョーダン・スミス先生の翻訳話は、Twitterのタイムラインに流されたので後日整理してアップします。日本語ネイティブにも読めない詩を英語にするときの工夫が凄まじかった。<br />
<br />
第2部は、テレコムスタッフ制作ドキュメンタリー『怪物君 詩人 吉増剛造と震災』の上映。吉増剛造が「原稿」(原稿の概念を覆すような)を作る様子は想像を絶する。現在動画配信サービスbonoboで観れる模様、リンクを貼っておく。<br />
<a href="http://video.bonobojapan.jp/contents/detail/10725">http://video.bonobojapan.jp/contents/detail/10725</a><br />
<br />
第3部、吉増GOZO氏による講演で「聞き取れた」数少ない走り書きをここに載せる。声が悪いということではなく、専門的過ぎてというか異次元過ぎてというか付いていくのに必死だった。自分でも理解できていないが、キーワードを一つ一つ見ると彼が如何なる思索の上で詩作しているかが垣間見える。<br />
<blockquote class="tr_bq">
<br />
<i>第3部、吉増剛造氏。十人が英訳した本は文字通り十人十色で衝撃的。 </i></blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<i><br />浪江で音をたて続ける廃墟、途中の浄土に近づいてる気がした。自由でもなく、ディフェレンスでもない、時間稼ぎでもない。溶けた原子炉みたい。飴屋法水に燃やされた怪物君に「美」。『ミリオンダラーベイビー』のクレオール性。一語一語で異次元に行こうとしてる。詩集も写真のごとく心の傷になる。そういう意味の時々刻々のディファレンス、時間稼ぎはある。 </i></blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<i></i><br />
<a name='more'></a><i><br />ナンシーの『コルプス』、「キリスト教の身体は言葉と一体」。有限な言葉が無限を表してるかのように振舞う。瓦礫のような世界で真言を求めると、コルプスのような変な体になる。あらゆる情報を集積する集積所、死体。キリスト教的な均衡は残り、身体はキリスト教の身体から変な身体になる。真言を求めながら別のことをする身体。死者の言葉を聞き、幽霊を出現させようとする身体。 </i></blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<i><br />書物は肉。真言を求めない人には怪物君のような表現はできない。真言を信じてるからこそ。バベルの塔のようにどこにもない言語。プラトニズムな言語ではなく、体験としてのプラトニズム。それを信じる人が日本にはいないが西洋にはいる。ポストモダンが何も信じないなら読むに値しない。書く度に限界(身体)に突き当たる。インクを垂らして肉を作る。「あれが詩」。普通の言語じゃ足りない。活字になるだけでは原言語に辿り着かない。そこに届かなければならないという思いゆえに身体だけが変になる。「声生」こそがコルプス。どういう風に入ってどう読んでも良い。自我じゃない詩人の主体。誰でも出来るわけじゃないし、機械に出来ることでもない。肉体を持った人間がいてこそ成立する。浪江の音を言葉として聞き取る。翻訳したら言葉でなくなる。 </i></blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<i><br />アファナシエフ。吉増剛造なりの美が手元性になってる。</i></blockquote>
<br />
付いて行けなかったとはいえ、「吉増を体験すれば、もっと自由になれる。」の意味が身体で理解できたのは本当に感動的だった。<br />
<br />
<br />
【イベント概要】<br />
講演会「真言‐翻訳-黄泉の声 ― 吉増剛造の〈現在〉」(12/16)<br />
主催:早稲田大学比較文学研究室<br />
公式: <a href="https://www.waseda.jp/flas/rilas/news/2016/10/28/2256/">https://www.waseda.jp/flas/rilas/news/2016/10/28/2256/</a><br />
詳細(PDF): <a href="http://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2016/10/Lecture_Dec.16.pdf">http://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2016/10/Lecture_Dec.16.pdf</a>omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-86689005342470094712016-12-22T22:06:00.004+09:002016-12-23T03:21:28.535+09:00【tweetまとめ】『クライテリア Vol.1』読書録<h4>
『クライテリア Vol.1』</h4>
<a class="twitter-follow-button" data-show-count="false" href="https://twitter.com/CriCriteria">Follow @CriCriteria</a><script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<br />
<br />
<u>富久田朋子「家族という回線ーー赤坂真理『東京プリズン』を読む」 </u><br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
『クライテリアvol1』富久田朋子「家族という回線ーー赤坂真理『東京プリズン』を読む」を読む。『東京プリズン』で縺れ合う本質論(天皇、英霊)と個(家族、私)の2つの位相を解きほぐし、クライマックスで描かれる(「敗戦」という)過去の「改変=外傷的記憶の消去」の成功に疑問を呈す。</div>
— fukudA_M (@chitomo12) <a href="https://twitter.com/chitomo12/status/804036034698690560">2016年11月30日</a></blockquote>
<br />
<a name='more'></a><br />
<script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
そこでは精神分析の如く、天皇と英霊を代理とした母娘関係の捻れの解消が目指されるが、それは血縁以外に関係を持たない者同士が血縁という「回線」を穿ち合って生じる穴=痛みの解消にはならない。斎藤環が指摘するように、娘にとっての「母殺しの不可能性」が逆説的に証明される。</div>
— fukudA_M (@chitomo12) <a href="https://twitter.com/chitomo12/status/804036172271845376">2016年11月30日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
こうした劇的なクライマックスとは対照に、母娘の電話につきまとう沈黙の時間にこそ、個であるがしかない故に個を超えて普遍的な痛みが宿っている。所々に挿入される執筆者富久田さんの東北の家族話がプリズン論と相乗効果発揮していて、これは大変面白かったです。<a href="https://twitter.com/hashtag/bunfree?src=hash">#bunfree</a></div>
— fukudA_M (@chitomo12) <a href="https://twitter.com/chitomo12/status/804036279646224384">2016年11月30日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<u>横山宏介「三三三三・三十一+一一一一」</u><br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
『クライテリアvol1』横山宏介「三三三三・三十一+一一一一」読了。阿部和重『シンセミア』とスコリモフスキ『イレブン・ミニッツ』における不在の中心「●」は、断片を切断=接続することで後付け的に群れを、群像劇を形成する。</div>
— fukudA_M (@chitomo12) <a href="https://twitter.com/chitomo12/status/811225020508684288">2016年12月20日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
更に『イレブン・ミニッツ』の数字は福永信の『プラスティック・ソウル』論に接続され、断片群を縫合する(「●」と同じく)数字の持つ幽霊的機構、形式主義が示唆される。それ故第三の存在「赤ん坊」、三角関係、三人称を排した福永信『一一一一一』もまた、数字が形成した群像劇だと言える。</div>
— fukudA_M (@chitomo12) <a href="https://twitter.com/chitomo12/status/811225440404709376">2016年12月20日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
イレブンミニッツにカタストロフを持ち込んだ●=カメラアイ=三人称が、『一一一一一』では排除され、そして反復強迫が如く「輪廻転生」が発生する。物語は赤ん坊を取り戻しに行くエレベーターの中で幕が降りる。</div>
— fukudA_M (@chitomo12) <a href="https://twitter.com/chitomo12/status/811225601285599233">2016年12月20日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>
<br />
<blockquote class="twitter-tweet" data-conversation="none" data-lang="ja">
<div dir="ltr" lang="ja">
数字という特殊記号が、一見それとは相容れなさそうな文学の中で如何にモゾモゾしてるかを切れ味鋭く取り出せていて流石です。所謂「複雑系批評」ってこーゆーのじゃあないの。同書収蔵の吉田さんの無限論とドンパチしてる辺りも、これまた編集部のチームワークを物語ってますな。 <a href="https://twitter.com/hashtag/bunfree?src=hash">#bunfree</a></div>
— fukudA_M (@chitomo12) <a href="https://twitter.com/chitomo12/status/811225902998618112">2016年12月20日</a></blockquote>
<script async="" charset="utf-8" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-13503600759317418532016-12-22T21:39:00.000+09:002016-12-23T03:20:49.172+09:00【講義録】映画とパノラマの境、カフカの眼。<div>
0. <span style="font-size: large;">J</span>örg Robertの『インターメディアリティ概論』を、大学のドイツ語の授業で学部生と並んで読んでいる。大学院の本来の所属でドイツ語圏のメディア学はほとんど扱われない(日本語でベンヤミンを読んではいるが)ので、この講義は学部向けでありながら院生の私にも大変役に立っている。これも折角なので、復習も兼ねて面白い部分をピックアップして非公式の講義録を残すことにした。</div>
<div>
(ちなみに、後期授業が始まった時、最初はIrina O. Rajewskyの『インターメディアリティ』を読んでいたが、話の抽象度と文法の両面で躓くところが多かったため、J・Robertの今読んでいるテクストに方向転換されました。)</div>
<div>
<br /></div>
<br />
<div>
<div style="text-align: left;">
1.<span style="font-size: large;">『イ</span>ンターメディアリティ概論』は、第5章「映画的記述:フランツ・カフカ Filmisches Schreiben: Franz Kafka」から読み始めることになりました。<br />
<a name='more'></a>俳優でもありながら、研究者としても知られているハンス・ツィシュラーによるカフカ研究(日本語では、『カフカ、映画に行く』の瀬川裕司による訳書が出ている)が話題となっている。カフカの手記を読む限りでは、後世になって古典と呼ばれるような映画を彼が観た記録はほとんど残っておらず、その多くはスラップスティックコメディのような「通俗的」な映画だった、など。そうしたカフカの手記の中に、ベンヤミンも「1900年頃のベルリンの幼年時代」で語られたカイザーパノラマ館が出てくる。</div>
<div style="text-align: center;">
<br /></div>
</div>
<div>
<div style="text-align: center;">
<br /></div>
</div>
<div style="text-align: center;">
<br /></div>
<div style="text-align: center;">
<iframe allowfullscreen="" frameborder="0" height="214" mozallowfullscreen="" src="https://player.vimeo.com/video/46147129" webkitallowfullscreen="" width="380"></iframe>
<a href="https://vimeo.com/46147129">Das Kaiserpanorama</a> from <a href="https://vimeo.com/gbib">Guim Bonaventura i Bou</a> on <a href="https://vimeo.com/">Vimeo</a>.</div>
<div style="text-align: center;">
<br /></div>
<div style="text-align: center;">
<br /></div>
<div>
「パノラマ」と名付けられているが、内実は現代で言う立体視装置である。装置を囲む席に座り、窓のレンズに両眼を当てて写真を見る。一定時間ごとに鐘が鳴り、別の写真が視界に現れる。彼はノートにこう記す。</div>
<div>
</div>
<div>
<blockquote class="tr_bq">
<i> 「その(パノラマ)写真は映画においてよりも生きている、というのも、その映像は現実の静けさを我々の視線に委ねるからだ。」</i></blockquote>
</div>
<div>
<br /></div>
<div>
止まっているからこそ活性化するという逆説。絵が静止していても、いやむしろ静止しているからこそ、それを見る両眼が活発に動く。それがカイザーパノラマ館の「生命感」だ、という(これには授業の担当教授の解釈も含まれる)。</div>
<div>
<br /></div>
<div>
2. <span style="font-size: large;">考</span>え直してみよう。そもそも動いていることが何故生命animatedに直結するのか。ただ動いていることと、生命があることとは切り離して考えられるのではないか。確かに、私たちは動物と植物を別々の範疇に収めて思考している。しかし科学的な事実としては、生命はどちらにも宿っている。動きを持つことと、生命を有すことはそれでも混線して私たちの思考を搔きまわす。アニミズムにおいて人間と動物、植物そしてはたまた水や岩石にまでスーパーフラットに「精霊」が宿るとされた一方で、キリスト教圏では動物「以下」は人間と極端に区別され、岩石などは議論の俎上にもあがらない。</div>
<div>
ある友人が、西洋文化圏のゴシック建築について慧眼を示していたのだが、それは「森林」として大都会の中に異様に高く聳える大聖堂はまさに、有史以前に西洋諸民族が抱えていたアニミズム的感性が一神教のキリスト教文化にも連綿と続いているのだ、と言う(どこかで文章化してくれればよいのだが)。理念として一神教を掲げようが、感性的にアニミズムを取り除くことは完全には出来まい。逆もまた然り、だろうか。運動を以って生命と認めた映画の初期から現代までの観客たちも恐らく、それらに板挟みされつつ得体の知れないテクノロジー経験を太古のボキャブラリーに基づき消化吸収し続けているはずだ。</div>
<div>
<br /></div>
<div style="text-align: left;">
</div>
<div>
生命を定義しようとするときの底抜け感。生命があるということは動きがあるということであるなら、動きがあることを生命があることに直結させることは錯誤である。カフカの眼で映画を観れば、そこには活き活きとした静けさではなく、生命無き騒々しさが現前する。</div>
omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0日本, 東京都35.6959688673623 139.6801757812534.8704928673623 138.38928228125 36.521444867362305 140.97106928125tag:blogger.com,1999:blog-7787959766141454325.post-40855731965434981152016-12-21T12:00:00.000+09:002017-01-21T05:18:05.874+09:00【書評】行きつ戻りつ――プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち 第一回」(訳:福冨渉)<br />
<blockquote class="tr_bq">
<i>ぼくはここから始めるべきではない。</i></blockquote>
始点を巡って逡巡する「新しい目の旅立ち」の導入文に、私は鷲掴みにされた。<br />
福冨渉氏による紹介によると、本テクストの著者であるタイの作家プラープダー・ユン(<span style="background-color: white; color: #252525; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px;">ปราบดา หยุ่น、</span>1973-)は、「他者や周囲に興味を持たない『個人』」を描くことで「タイのポストモダン文学」「新世代の代表」として注目を集めている。私はタイのポストモダンについてどころかタイの「モダン」、そしてそんなものがあるのかどうかさえ知らない。東浩紀主催のゲンロンカフェ、および彼らの編集する言論雑誌『ゲンロン』でタイの作家をなぜ取り上げるのか、その文脈も知らない。それについて書く、このブログ自体の出発点もハッキリ自覚していない。何度かブログを立ち上げては、「作ってみました。よろしくお願いします。」と宣言しては、そして一週間も経たないうちに更新が途絶えるということを何度繰り返したことか。<br />
プラープダー氏が思索の出発点を慎重に審査するのとは反対に、このブログは後付け的に出発点が見出せるよう、テクストについて語りたいという進行形的な意志の上に成立するようにしたい。この意図もまた、後付けである。<br />
<br />
<a name='more'></a><br />
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兎に角、哲学・思想の本場であるアメリカ、フランス、ドイツとは違う場所で、哲学・思想そして「批評」がどのような営みを構築しているかを知ることは、多くの人が参入せず極めて貴重性が高いという意味で「情報量が大きい」試みだと言える。<br />
だが、それ以上に重要な点はこのテクストの中に見出すことができよう。<b>始点の決め方をめぐる逡巡である</b>。浅田彰を筆頭にしたニューアカデミズムとポストモダン三巨匠(フーコー、ドゥルーズ、デリダ)が日本の”現在”思想に落とした影があまりに大き過ぎて、研究者か大学教授にでもならない限り日本の思想の大局的な筋道を見通すことが出来ない。私の友人はこれに「コンテクスト・コンプレックス」という素晴らしい言葉を与えてくれたが、根がないことによる浮遊感に当に私自身が虚のようなものを覚えていて、それゆえプラープダーの逡巡に大きな共感を覚えることになった。<br />
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元々持っていた「目」に飽きを覚えた時、プラープダーは哲学を学び直すことに踏み出した。日本財団アジア・フェローシップの助成金を獲得し、フィリピンと日本へ「汎神論」、「文化と『アニミズム』的信仰」の研究に向かうことになった。その根底にあったのが、青春時代に夢中になった、アジア的アニミズムとは程遠く思われるイギリスのバンド、ラヴ・アンド・ロケッツの歌だった。<br />
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<blockquote class="tr_bq">
<i>You cannot go against nature </i> </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<i></i><i>Because when you do go against nature</i> </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<i></i><i>It's part of nature too </i> </blockquote>
<blockquote class="tr_bq">
<i></i><i>(Love and Rockets"No New Tale To Tell", 1987)</i></blockquote>
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自然に逆らえないのはなぜか、 自然に逆らえないなら自由意志とは何か。それが彼を「汎神論」という言葉に導いたのだと言う。<br />
ここだけを聞くと、学生が哲学に目覚めるきっかけというようなありきたりな話のようにさえ感じ取れる。だが興味深いのは、このテクストそのものがバイクの後部に乗って「黒魔術の島」を走るプラープダーの「どこから始めるべきか」という問いから始まり、いくつかの逡巡を経て語り始めたと思いきや、最終的に「『どこから始めるべきか』という問い自体のルーツを可能な限り遡った地点」、つまり彼の青春時代に着地したということだ。<br />
勿論、本誌に掲載されたこのテクストは元の書籍を分割した一部だから、これで終わりというわけではない。しかし訳者・編集者による「切断」が、編集的にこのテクストを一つの完成体として提出しているわけだから、プラープダーの青春が一つの分岐器になってると言うことは間違いでもない。<b>肝心なのは、「始めた」つもりが、気が付けば「始め」から遡って「始めの始め、そのまた始め」に逆行していた</b>ことだ。<br />
リサーチ先で出会った、オーガニック生活の中で「自然」と一体化する美術教師から冷ややかに距離を置くプラープダーの話も、黒魔術の島「シキホール」で魔女によって白痴にされた知人の話もそれはそれで興味深いが、私にとって最も興味深いことはやはり上記のテクスト構造であった。これが最後の一文。<br />
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<blockquote class="tr_bq">
<i>ただ、ぼくの思考はずっと、狭い脳の中でぐるぐる回りながら、壁にぶつかり続けていた。</i></blockquote>
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omochihttp://www.blogger.com/profile/08683752380428473502noreply@blogger.com0