2018年4月14日土曜日

漫画村とフリーカルチャー

ネットはその根幹にあるシリコンバレー気質、フリーカルチャー文化から「漫画村」のような違法コピーサイトをどうしても生み出してしまう。

不可能を可能にするシステムそれ自体は絶対的に善だが、誰かの自由は別の誰かの不自由を招くものである。

つまり「不能さ」を被っているアクターを考えた方が「漫画村」問題の本質に近付けるだろう。


まず、読者にとってフリーアクセスが可能となったことで、漫画家にとっては回覧数に等しい対価を得ることが不可能となった。
これが第一。


そして第二のアクターが広告主の存在である。

広告については、2通りのユーザーについて考える必要がある。金のあるユーザーと金のないユーザーだ。

後者については話は単純、金のないユーザーが広告をクリックしたところで商品購買には繋がりにくい。
ここでは漫画村のみがクリック謝礼の味を占め、スポンサーはただただ損をする。

すなわちこのケースだと、スポンサーは広告費に対する十分な対価を得ることができないいうことだ。


もう一つのケース、金のあるユーザーについて。
こちらが肝心な話になる。

金を持ったユーザーが広告をクリックし、商品購入に繋がれば漫画村、スポンサーと三者ともにWin-Winの関係が成立する。

つまり、貧乏ユーザーケースで不能さを被った広告主は、他方の金持ちユーザーケースの場合だと利益を獲得しているのである。

ここに「漫画村」という現象の理不尽さがある。
すなわち、本来作家の手に落ちるべきユーザーのお金が、作家を素通りして漫画村とスポンサーに流れることで、作家を抜きにしたままWin-Winの経済圏を成立させてしまうのである。


文化資本は富裕層に独占されるべきでないというフリーカルチャーを装いつつ、実際のところは富裕層の存在抜きに駆動することはない、それがwebである。


すなわち漫画村を維持しているのは、広告をクリックすることに躊躇いを覚えない裕福なユーザーと、ユーザーのクリックに対して無差別に謝礼を支払うweb広告システムに他ならない


ユーザーにとっては、読みたい漫画さえ読めればそれで良い。
webサイト運営者にとっては、PV数と広告のクリック単価さえ増えればそれで良い。
広告主にとっては、合法サイトだろうが違法サイトだろうが顧客さえ獲得できればそれで良い。

インターネットにおける「フリーカルチャー」とは、こうした近視眼的欲望から出来しているのだ。


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