2016年12月22日木曜日

【講義録】映画とパノラマの境、カフカの眼。

0. Jörg Robertの『インターメディアリティ概論』を、大学のドイツ語の授業で学部生と並んで読んでいる。大学院の本来の所属でドイツ語圏のメディア学はほとんど扱われない(日本語でベンヤミンを読んではいるが)ので、この講義は学部向けでありながら院生の私にも大変役に立っている。これも折角なので、復習も兼ねて面白い部分をピックアップして非公式の講義録を残すことにした。
 (ちなみに、後期授業が始まった時、最初はIrina O. Rajewskyの『インターメディアリティ』を読んでいたが、話の抽象度と文法の両面で躓くところが多かったため、J・Robertの今読んでいるテクストに方向転換されました。)


1.『インターメディアリティ概論』は、第5章「映画的記述:フランツ・カフカ Filmisches Schreiben: Franz Kafka」から読み始めることになりました。
俳優でもありながら、研究者としても知られているハンス・ツィシュラーによるカフカ研究(日本語では、『カフカ、映画に行く』の瀬川裕司による訳書が出ている)が話題となっている。カフカの手記を読む限りでは、後世になって古典と呼ばれるような映画を彼が観た記録はほとんど残っておらず、その多くはスラップスティックコメディのような「通俗的」な映画だった、など。そうしたカフカの手記の中に、ベンヤミンも「1900年頃のベルリンの幼年時代」で語られたカイザーパノラマ館が出てくる。





 「パノラマ」と名付けられているが、内実は現代で言う立体視装置である。装置を囲む席に座り、窓のレンズに両眼を当てて写真を見る。一定時間ごとに鐘が鳴り、別の写真が視界に現れる。彼はノートにこう記す。
    
 「その(パノラマ)写真は映画においてよりも生きている、というのも、その映像は現実の静けさを我々の視線に委ねるからだ。」

 止まっているからこそ活性化するという逆説。絵が静止していても、いやむしろ静止しているからこそ、それを見る両眼が活発に動く。それがカイザーパノラマ館の「生命感」だ、という(これには授業の担当教授の解釈も含まれる)。

2. え直してみよう。そもそも動いていることが何故生命animatedに直結するのか。ただ動いていることと、生命があることとは切り離して考えられるのではないか。確かに、私たちは動物と植物を別々の範疇に収めて思考している。しかし科学的な事実としては、生命はどちらにも宿っている。動きを持つことと、生命を有すことはそれでも混線して私たちの思考を搔きまわす。アニミズムにおいて人間と動物、植物そしてはたまた水や岩石にまでスーパーフラットに「精霊」が宿るとされた一方で、キリスト教圏では動物「以下」は人間と極端に区別され、岩石などは議論の俎上にもあがらない。
 ある友人が、西洋文化圏のゴシック建築について慧眼を示していたのだが、それは「森林」として大都会の中に異様に高く聳える大聖堂はまさに、有史以前に西洋諸民族が抱えていたアニミズム的感性が一神教のキリスト教文化にも連綿と続いているのだ、と言う(どこかで文章化してくれればよいのだが)。理念として一神教を掲げようが、感性的にアニミズムを取り除くことは完全には出来まい。逆もまた然り、だろうか。運動を以って生命と認めた映画の初期から現代までの観客たちも恐らく、それらに板挟みされつつ得体の知れないテクノロジー経験を太古のボキャブラリーに基づき消化吸収し続けているはずだ。

 生命を定義しようとするときの底抜け感。生命があるということは動きがあるということであるなら、動きがあることを生命があることに直結させることは錯誤である。カフカの眼で映画を観れば、そこには活き活きとした静けさではなく、生命無き騒々しさが現前する。

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