2017年1月6日金曜日

視覚/死角の映画 ― アピチャッポン・ウィーラセタクン『光の墓 รักที่ขอนแก่น』

年早々、実家から東京に戻って来てすぐ映画館に足を運んだ。表参道のシアター・イメージフォーラム。話題になっていた『この世界の片隅に』も選択肢に入っていたが、茫として流行りを追う気持ちでもなく、イメフォでアピチャッポンのアンコール上映がされていることを知ると直ぐにそちらになびいていった。

 丁度一年前の同じ月に始まった企画、「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」で観た『トロピカル・マラディ』では、広大無辺な闇に包まれた熱帯林の中での恍惚なトランス状態を、映像を通して味わうことができた。「ただの映像だよ」と冷たく突き放して俯瞰する態度とは決定的に異なり、アピチャッポン・ウィーラセクタンは我々が「映像」と呼ぶものを「光」と解釈し、映画の別なる相貌を露にさせようとしているように思われる。《Syndromes and a Century》(2006)と《Cemetery of Splendour》(2015)をそれぞれ『世紀の光』と『光の墓』と訳したのは、良い意味での原題に対する裏切りになったのではあるまいか。




『光の墓』は、不可視なものについての逆説的な映画である。病院で眠り続ける元軍人たち、両脚の長さが不均等な介護ボランティアの女性、眠る男たちを通して死者と交信する若い女性。起きている事態は異常なのに、そこに深刻さや暗さは顔を見せない。それが日常の一部であるかのように映画は淡々と進行する。

 唐突に挟まれるダンス・シーケンスは例によって相変わらずだが、『世紀の光』でも見られた「人工物の神秘化」もまた本作でちらほら見受けられる。病室に設置された、青赤緑とゆっくり色を移ろわせる電灯は、同一空間をして複数の様相があり得ることを顕にする。その変化を捉えるカメラが、ショッピングモールの照明も同様にフォーカスすることも理にかなっている。ネオンライトに彩られることで日常空間は祝祭空間と化し、生と死の境界に朦朧とした意識が接触する。そこでは見えるモノ(例えば人間の褐色の肌)が見えなくなり、見えないモノ(彩色された肌)が見えるようになる。

 あるいは、死者と交信する女に焦点を当てても良い。彼女は寝たきりの病人に触れ、彼に関わる死者のビジョンを「観る」。それを看護婦に「語る」。(にしても、こうして数時間前に観た映画について乏しい語彙をやり繰りして語ろうとする私自身が、彼女のような「交信者」なのではないかと考えると可笑しい気持ちになる) 

 彼女の言葉に耳を傾ける人々も、我々観客も、見えないモノを言葉を通して想像することしか出来ない。視覚の前で流れる映像とは違う映像が、死角に隠れて流れているのだ。

 複数の流れが並行していて、どちらかを見るともう片方が見えなくなる。病院の下深くに眠るとされる古代の国王の墓は、そうしてその姿を現さないまま映画は終わる。


ラープダー・ユンにしてもそうだが、タイの作家の「自然」へのこだわりには並々ならぬものが感じられる。この映画の中で確認される「事件」は、食事中に意識を失い料理が残った皿に頭を墜落させる男と、子どもを連れて勝手気ままに病院を彷徨する鶏、それから3人の女性に囲まれて寝ている最中にペニスを勃起させる兵士ぐらいである。人間の意識が遮断している時にこそ、目を見張る事件が起きる。いや、意識が遮断する時に起こる事件を逃さず捉えようとしている、と言った方が正しい。『世紀の光』で、病院という空間が神秘的、聖的な容貌を露にする瞬間を捉えてみせた時も、レンズに人間の姿は映されず、医療器具という「人工」の極限が一巡して「自然」と重なる瞬間を演出してみせていた。

 ひょっとすると、人工に対するものとして自然を仮定する思考回路は、彼らの作品を読解するツールとしては力不足かもしれない。この「訳の分からない触感」は大切にしておきたい。


P.S.
この記事を書いた後日、写真美術館のアピチャッポン展図録を読むと、まんま「映像の不可視性」というタイトルでアピチャッポンによる原稿が載せられており、外れてはないにしろ凡庸な読みだったことを反省している。


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