2016年12月21日水曜日

【書評】行きつ戻りつ――プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち 第一回」(訳:福冨渉)


ぼくはここから始めるべきではない。
始点を巡って逡巡する「新しい目の旅立ち」の導入文に、私は鷲掴みにされた。
 福冨渉氏による紹介によると、本テクストの著者であるタイの作家プラープダー・ユン(ปราบดา หยุ่น、1973-)は、「他者や周囲に興味を持たない『個人』」を描くことで「タイのポストモダン文学」「新世代の代表」として注目を集めている。私はタイのポストモダンについてどころかタイの「モダン」、そしてそんなものがあるのかどうかさえ知らない。東浩紀主催のゲンロンカフェ、および彼らの編集する言論雑誌『ゲンロン』でタイの作家をなぜ取り上げるのか、その文脈も知らない。それについて書く、このブログ自体の出発点もハッキリ自覚していない。何度かブログを立ち上げては、「作ってみました。よろしくお願いします。」と宣言しては、そして一週間も経たないうちに更新が途絶えるということを何度繰り返したことか。
 プラープダー氏が思索の出発点を慎重に審査するのとは反対に、このブログは後付け的に出発点が見出せるよう、テクストについて語りたいという進行形的な意志の上に成立するようにしたい。この意図もまた、後付けである。



 兎に角、哲学・思想の本場であるアメリカ、フランス、ドイツとは違う場所で、哲学・思想そして「批評」がどのような営みを構築しているかを知ることは、多くの人が参入せず極めて貴重性が高いという意味で「情報量が大きい」試みだと言える。
 だが、それ以上に重要な点はこのテクストの中に見出すことができよう。始点の決め方をめぐる逡巡である。浅田彰を筆頭にしたニューアカデミズムとポストモダン三巨匠(フーコー、ドゥルーズ、デリダ)が日本の”現在”思想に落とした影があまりに大き過ぎて、研究者か大学教授にでもならない限り日本の思想の大局的な筋道を見通すことが出来ない。私の友人はこれに「コンテクスト・コンプレックス」という素晴らしい言葉を与えてくれたが、根がないことによる浮遊感に当に私自身が虚のようなものを覚えていて、それゆえプラープダーの逡巡に大きな共感を覚えることになった。

 元々持っていた「目」に飽きを覚えた時、プラープダーは哲学を学び直すことに踏み出した。日本財団アジア・フェローシップの助成金を獲得し、フィリピンと日本へ「汎神論」、「文化と『アニミズム』的信仰」の研究に向かうことになった。その根底にあったのが、青春時代に夢中になった、アジア的アニミズムとは程遠く思われるイギリスのバンド、ラヴ・アンド・ロケッツの歌だった。

You cannot go against nature  
Because when you do go against nature 
It's part of nature too  
(Love and Rockets"No New Tale To Tell", 1987)

 自然に逆らえないのはなぜか、 自然に逆らえないなら自由意志とは何か。それが彼を「汎神論」という言葉に導いたのだと言う。
 ここだけを聞くと、学生が哲学に目覚めるきっかけというようなありきたりな話のようにさえ感じ取れる。だが興味深いのは、このテクストそのものがバイクの後部に乗って「黒魔術の島」を走るプラープダーの「どこから始めるべきか」という問いから始まり、いくつかの逡巡を経て語り始めたと思いきや、最終的に「『どこから始めるべきか』という問い自体のルーツを可能な限り遡った地点」、つまり彼の青春時代に着地したということだ。
 勿論、本誌に掲載されたこのテクストは元の書籍を分割した一部だから、これで終わりというわけではない。しかし訳者・編集者による「切断」が、編集的にこのテクストを一つの完成体として提出しているわけだから、プラープダーの青春が一つの分岐器になってると言うことは間違いでもない。肝心なのは、「始めた」つもりが、気が付けば「始め」から遡って「始めの始め、そのまた始め」に逆行していたことだ。
 リサーチ先で出会った、オーガニック生活の中で「自然」と一体化する美術教師から冷ややかに距離を置くプラープダーの話も、黒魔術の島「シキホール」で魔女によって白痴にされた知人の話もそれはそれで興味深いが、私にとって最も興味深いことはやはり上記のテクスト構造であった。これが最後の一文。

ただ、ぼくの思考はずっと、狭い脳の中でぐるぐる回りながら、壁にぶつかり続けていた。




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