2016年12月24日土曜日

ノイズそして水墨画――戸田ツトムとアニメーション作家のdesign

0.目次
  1.戸田ツトム経歴
  2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」
  3.コンピュータ、ノイズ、水墨画
  4.ノイジー・アニメーション――Ian Cheng、David OReilly

1.戸田ツトム経歴

・戸田ツトム
1951年生まれ。桑沢デザイン研究所での松岡正剛との出会いをきっかけに、1973年から5年ほど工作舎で活動、その後独立。『MEDIA INFORMATION』、『ISSUE』『WAVE』『GS』など80年代雑誌で独自のスタイルを築き上げる。杉浦康平の文体を引き継ぎつつ、アンチパターンとも呼べるノイズ的空間処理を行った。


2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」

 彼のデザイン思想におけるキーワードが「ノイズ」の概念です。ノイズを単に情報を阻害するものとしてではなく、逆に情報を生産するものとして実作に応用したことが「思索するデザイナー」と彼が呼ばれる所以でしょう。

「何の意味も」読み取れないこの像がヒトの眼球視像より多くの情報量を持っているのだとしたらヒトの営為にとって、情報量の増加とはでたらめさ、あるいは雑音以外の何物でもない。逆に言えば、風景の中に意味を見出すということは、先のいくつかの――といってもそれだけで膨大であるが――厳しい厳しい制限と抑止力を知覚に与えて、できるだけ多くの情報に直接触れないように人体を保護し、外界からの光や情報といった刺戟の大部分を防去するということなのだ。」(戸田ツトム『断層図鑑』(1986年、北宋社)、p.39)

「いずれにしても輪郭が形成される前・事態には状態が一様ではないことの段差、断絶、密度変化などの動因力が機能していることが判る。私はつい最近までこういった兆候へ変移する運動を引き起こす何らかの因子を「ノイズ」と諒解していた。六章までに頻出するノイズというボキャブラリーは大体この周辺の事情を指している。つまり、ほかならぬメディア――触媒――ということであった。」(同書、p339)


また、「ミョウバン液と結晶」の美しい比喩を以ってノイズ(ここでは「もうひとつ別の作用」とパラフレーズされてる)を語ってもいます。

「結晶の成長にあたっては極めて結晶的でないもうひとつ別の作用が必要なのである。グラフィック・デザインにおける図形操作のプロセスとはそのようなものである。図形、輪郭の生成過程あるいは認識のプロセス――(中略)――においてミョウバン液や結晶全般の成長と同じような関係構造が窺われるのである。」(同書、p.340)


cf.
・シャノンの情報理論…「『可能な符号列の数の対数値』を情報の測度とする」
     「一般にある文字の出現確立をPとすると、それが送られたときの情報量は『-log P』で与えられる。」(西垣通『情報基礎学』(2004年、NTT出版)p43)
          ex.出現確立の高い「e」より、出現確立の低い「q」の方が情報量が大きい。


3.コンピュータ、ノイズ、水墨画

・『電子図像誌 黄昏の記述』(1994)解題
 初期PCで制作したグラフィック・デザインの大判画集。水面の中の水面、消失点が複数ある「n点透視図法」など、西洋絵画的な線遠近法をハックしたビジュアル。現実と無関係なオブジェと写真を組み合わせたグラフィックデザインがここで現れます。同時期に彼がMacintoshの画面に覚えた奇妙な空間感覚との関連で語ることは的外れでもないでしょう。

「様々な視角、あらゆる遠近法が混在する異常な空間概念の出現である。/厚みのある、概念なのか立体なのか不明の挙動をする平面空間・正面からの一点透視図法に似たディスク関連のアイコン・街角や机に置かれたような右上45度からのフォルダやごみ箱・マウス動作の軌跡が、背後の絶対平面に描かれたにもかかわらず最上面を通過するマウス…」(戸田ツトム『電子思考へ……』、p.77)

「白と黒のみがたどたどしく再現しようとするビジュアル世界は恐ろしく乏しいものだった、しかし文字・絵や図形、押すとカサッという柔らかい感触の残るキー、距離感のない紙のようなディスプレイ…コンピュータの中や周辺に生起する出来事のすべてが、視覚的ではなく形象の不明瞭な、深いハーフトーンの質感に彩られた体験に満ちていた。
 その空間感覚にイスラム主義的な『明るい夜・形象の消える黄昏時』や中国宋代の山水世界を読み取ったユーザーが数人いた。その内の一人の天才的プログラム・デザイナーが結局、Mac Paintというビル・アトキンソン設計になるこれまた白と黒だけのプログラムをベースにして、書道用のツールをリリースするという驚くべき離れ業を行っていた、この時代(80年代後半)に知り合った多くの米国西海岸デジタル・デザインの関係者のほとんどがこの『Mac書道』を知っていた。」(戸田ツトム『電子思考へ……』(2001年、日本経済新聞社)p.30 )

 PC画面を言語化するために引き合いに出すものが「イスラム主義」や「中国宋代の山水世界」という点が興味深い。戸田ツトムに限らず、こういうのはコンピュータを産み出した西洋世界においても顕著です。ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』やフィリップ・K・ディック『高い城の男』等のサイバーパンクに、ウザいほど東洋的モチーフがいくつも出てくるのも、西洋人にとってさえ宇宙人的存在な電子テクノロジーが日常に侵入した時に「西洋的な語彙では語れない」とアタフタした結果、東洋的な言葉が無理やり当てつけられたのではないか。

 また、他のテクストでは水墨画とのアナロジーが頻出しています。観たものをそのまま紙に描くのではなく、「磁場」のようなものを「受信」して筆を下ろす。水墨画は電磁波である。「ホントかよ」とツッコミたくなるところですが、我らが戸田先生が言っていることなので引用します。

「これ(ブラウン管)は隅から隅まで均一な画面ですからその画面に何をどう置こうと自由なんです。ですからレイアウトは白い壁にシミを恣意的にくっつけてしまうようなやり方をとらざるを得ない。つまり雪舟が岩の表情を空中に浮かびあがらせたようなソフトアイ的手法をとる。あるいは中国の宋の時代の水墨画家が、筆を使わず髪をふりみだして絵を描いた方法に近いのではないか。水墨的自動描法みたいなものでしょう。」(竹原あき子「エディトリアルデザインの現場から…戸田ツトムの仕事を解読する」、『SD』(311)、鹿島出版会、1990年8月)

「[電波源]などの図像 (存在しないかもしれないが認識できる対象。電磁波を残して消滅した星など)と水墨画の間には、先ほど言ったようによく似た印象がある。つまりそれらにはどれも場の緩やかな設定があってこその中に図が滲み出てくる、ということです。(中略)水墨画の濃淡つまり水量と墨章によって展開される朦朧、あのグレートーンの波がおしよせるか、あるいはグレートーンの霧に幾重にもとりまかれているかに思わせる墨の多様性は単なる表現技法としての濃淡ではない。あれは場が持っている潜在能力の横溢をあらわし、その分布図でもあるわけです。」(竹原)

 ということで、水墨画をじっと見つめていると、近年湯水の如く生産されているインフォグラフィックスに見えてくるのではないでしょうか…?(大胆な仮説)

 

左図:『秋冬山水図』、京都、 雪舟(1420-1506頃)
右図:『早春図』(1072)、北宋、郭熙(1020-1090)


 


『時間のヒダ、空間のシワ・・・[時間地図]の試み 杉浦康平ダイアグラム・コレクション』


4.ノイジー・アニメーション――Ian Cheng、David OReilly

 最後に、コンピュータのビジュアル、およびCGにおけるノイズ的手触りをそのままにして作品制作を行っているアーティストを二人紹介しましょう。

・Ian Cheng
 『ハーフライフ』や『DOOM』など、テレビゲーム制作でも使われるゲームエンジンを使った映像制作を行っています。画面内で動く3Dモデルはそれぞれ自律して行動を選択し、作家の手を離れた「イベント」が次々に引き起こされることが特徴です。

《Thousand Islands Thousand Laws》(2013):https://vimeo.com/74466694

《ewCloud》(2013):https://vimeo.com/100209830

cf.
"THE CYBORG ANTHROPOLOGIST: IAN CHENG ON HIS SENTIENT ARTWORKS"


・David OReilly
 1985年、アイルランド、キルケニー生まれ。現在ロサンゼルスで制作活動を行っています。


《Please say something》(2008)”http://www.davidoreilly.com/#/please-say-something/


 短編アニメーションは特に文章化されることの少ない領域でありますが、デヴィッド・オライリーは貴重にも「アニメーション基礎美学」というタイトルで制作を理論化した文章を発表しています。そして土居伸彰氏による翻訳もネットで読むことができるので、アニメーションに関心のある方は山村浩二氏のAnimations Creators & Critics(http://www.animations-cc.net/)で読むと良いでしょう。(他の批評文等も充実しています)

「ある現象が芸術作品のなかで真なるものとして創造されるのは、作品の内的なつながりが生命体の構造全体を再構築するよう試みられたときである。」(アンドレイ・タルコフスキー)

 私が強く信じていることがある――美学の鍵は一貫性にある。3DCGアニメーションにおいては本質的に、世界のモデルを人工的に構築することになるが、私はこう主張したい――その作品世界が信じうるものとなるか否か、それは、どれだけの一貫性があるかということだけにかかっている。あらゆる要素が、それらを支配する一連の法則のうちに結びつけられているかどうか。この一貫性は、セリフ、デザイン、音、音楽、運動……作品のあらゆる領域へと広がっていく。それらの要素が一体となることで、「私たちが見ているものは本当なのだ」ということを確信させるフィードバック的なループが生み出されるのだ。」(デヴィッド・オライリー「アニメーション基礎美学」(2009)、訳:土居伸彰、URL:http://www.animations-cc.net/criticism/c014-basicanimation01.html

 現実に参照物をもたない3Dモデルによる統一性のある世界を構築する、そうすることによって「その作品世界は信じうるものとなる」。この美学理論は逆に、アニメーションの中に描かれることは現実ではないのだから何でもアリという答えにさえ行き着きます。それが近年、日本の短編アニメーション上映会でもしばしば取り上げられるナンセンス・アニメーション、《The External World》として具現化しているのではないでしょうか。


《The External World》(2011)”http://www.davidoreilly.com/#/the-external-world/

 講義の中で、この作品との比較として《サウスパーク》が挙げられました。確かに、ナンセンス作品として観ればこれら二作品をはっきり区別し得る特徴を私は見出せていません。ナンセンスさの質を比較する仕事はまた別の機会に任せましょう。戸田ツトムが言う液晶モニタの手触り感、それを追究しているのはエディトリアルデザイナーではなくアニメーション作家やアーティストだという現状を展望するにあたって本稿を締めようと思います。


(本稿は院ゼミで使ったレジュメをweb用に加筆修正したものです)

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