2017年1月20日金曜日

20代初心者がプログラミング学習にあたって参考しているもの

(随時追加予定)

【サイト】
ドットインストール
htmlからmySQLまで、プログラミング最初の第一歩としてお馴染みのドットインストール様。

ノンプログラマーがUnityでゲームアプリを公開した開発後記~その1~
初心者状態から始めて、実作を作るまでのコツが書かれています。

Unity を使いはじめたばかりの頃の自分に伝えたい、Unity の基本



【スライド】
上杉周作氏「20歳を過ぎてからプログラミングを学ぼうと決めた人たちへ」


20歳を過ぎてからプログラミングを学ぼうと決めた人たちへ from Shu Uesugi


【HTML】
・吉田真麻『HTML5/CSS3モダンコーディング フロントエンドエンジニアが教える3つの本格レイアウト スタンダード・グリッド・シングルページレイアウトの作り方』(翔泳社)
基本を終えた後、実践への移行がスムーズにできる。
特に近年の動向を反映したデザインが目標になってるので、十年近く前にhtmlで遊んで今再び勉強し直している私にとっては良きアップデートになっている。

2017年1月15日日曜日

「批評再生」

先日のゲンロンのイベント(1月13日開催、安藤礼二 × 大澤聡 × 杉田俊介 × 東浩紀「現代日本の批評 1975-2016」再考──共同討議全3回完結記念)で、東浩紀が安藤礼二のコメントを以って、「ゲンロンの全否定」などと過大に対立構造を誇張したことにあちこちから悲鳴が上がってるのを見て思ったところを書いておく。

この誇張はイベントをプロレス化してオーディエンスを盛り上げるために東氏が度々採用する方法でしかなく、日本を代表する哲人たる人間が本心からそんなこと(安藤氏が東氏の存在を全否定した)を信じているわけがない。

彼は意識と行為、コンスタティヴとパフォーマティヴの分別がクソ巧い。
まずはそこに騙されぬよう。

そして、経営者としての東はこれを愉しみ、哲学者としての東は絶望している(ゲンロンβ参照)。

批評で食べていくためにはクソ下らない手段に時間と身を捧げなければいけない、逆に言えばそれさえクリア出来ればこんな世の中でも批評で食べていける。

プロレスラーにならなければ現実的に食べていけないことが批評家の直面せざるを得ない問題であり、さすれば「批評再生」の旗を突き立てるなら、その目印はまさに此処にあるのではあるまいか。



2017年1月14日土曜日

pdfをそのままePubに変換し電子書籍を作る

集に関わっている同人誌がついに電子書籍化に踏み出したので、電子化手続きの中でも最大の関門、固定レイアウト型でpdfをepubに変換する方法を片っ端から試してみました。

「pdf epub」でググると大量にそれっぽいページがヒットするわけですが、その大多数はアフィリエイト目的で作られたおざなりなサービスであるという地獄が現代のネットランドスケープです。
勿論英語圏中国語圏のユーザー向けのきちんとしたサービスかもしれないですが、日本語で、それもご丁寧に.jpのドメインまで取得しているにも関わらず、日本語ファイルを投げたら豆腐文字になって帰ってくるのには流石に文句言っても良いのではないでしょうか。

この手のサイトは今後も増え続けていくことだろうけど…。


余計な情報は要らない、どうすればpdfからePubを作れるか手っ取り早く知りたい方は一番下までスクロールして下さい。

それでは斬って参ります。

2017年1月6日金曜日

視覚/死角の映画 ― アピチャッポン・ウィーラセタクン『光の墓 รักที่ขอนแก่น』

年早々、実家から東京に戻って来てすぐ映画館に足を運んだ。表参道のシアター・イメージフォーラム。話題になっていた『この世界の片隅に』も選択肢に入っていたが、茫として流行りを追う気持ちでもなく、イメフォでアピチャッポンのアンコール上映がされていることを知ると直ぐにそちらになびいていった。

 丁度一年前の同じ月に始まった企画、「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ」で観た『トロピカル・マラディ』では、広大無辺な闇に包まれた熱帯林の中での恍惚なトランス状態を、映像を通して味わうことができた。「ただの映像だよ」と冷たく突き放して俯瞰する態度とは決定的に異なり、アピチャッポン・ウィーラセクタンは我々が「映像」と呼ぶものを「光」と解釈し、映画の別なる相貌を露にさせようとしているように思われる。《Syndromes and a Century》(2006)と《Cemetery of Splendour》(2015)をそれぞれ『世紀の光』と『光の墓』と訳したのは、良い意味での原題に対する裏切りになったのではあるまいか。

2016年12月27日火曜日

【駄文】ラーメンとデザイン

(一番下の後記だけが頭が正常な文章です。適宜読み飛ばして下さい。)

AFURI 六本木交差点店…「安心感のある醤油ラーメンに加え、大粒の豚肉がインパクトの肉ごはんが記憶に残る美味だった。」


 ラーメンのデザインについて考えたことを。
 ラーメンをラーメンたらしめる最低条件は次の二つである。

汁 + 麺

 しかし、ラーメンに於いてはこれらを分離してはならない。それはつけ麺である。ラーメンとつけ麺の本質的な違いは、麺を啜る行為が同時に汁を飲む行為を内包し、これら2要素が出会いを超越してアウフヘーベンに到るか否かにある。つけ麺における二人の出会いは、好機を掴み損ねた男女の如く「出会い」から先に進むことはない。(その割り切り感がつけ麺の良さなのだが。)
 ミニマルタイプの具体例としてはミスタード-ナツで供される最も安い中華そばやチキンラーメンなどが挙げられる。
 とはいえ我々に親しみのあるラーメンとは違う。ここに欠けているもの、それがトッピングである。

汁 + 麺 + チャーシュー + 野菜 + 味玉 + 海苔

 トッピングは本質ではないが、本質を周辺が占拠してしまうこともラーメンにおいては珍しい事件というわけではない。券売機でトッピングに悩む羊たちは、味玉が入ったラーメンを食べようか、それともラーメンに入った味玉を食べようかと、天使と悪魔を争わせているのである。

 そしてしばしば忘れられがちだが、ラーメンを収める容器ほど経験の質に影響を加えるものはない。その影響力はトッピングに匹敵する。国立にあるラーメン屋、くぬぎに足を運んでみたまえ。トッピングに煩わされる心配はしなくて良い、何も考えず券売機の左上のボタンを押し注文した皿を待つだけだ。やがて店員さんが持って来てくれる器にあなたは一目惚れするに違いない。横長の楕円形をした底の深い陶器。マグマのような黒みを湛えた器の表面に、汁に浮かぶ味玉の黄身は輝きを一層増加させる。夢中に食べ尽くした後できっとこう言うに違いない。「店長、もう一玉お願い!」。最も考え抜かれて用意された容器は、その使用者を「外部」ではなく「内部」に置いてしまう。「容器の中」で食べるラーメンが、外から食べるラーメンとまったく別物だということは言うまでもない。

 こういったラーメン経験の良き不純さ(「純粋ラーメン」など存在しない)を鑑みた時、特に容器ほどその重要性に反して扱いが杜撰なものもない。しかしそれも理解できない話でもない。何故なら容器による一つの比類なきラーメン経験の誕生は、ラーメン職人が苔むすほどの時間を費やして編み出した容器外のテクストを容器が書き変えてしまうことを意味するからである。容器の果たす役割が大きくなればなる程、職人のオイディプス・コンプレックスは肥大化するリスクを避けられない。何言ってんのかよくわかんないけど。

 食べることしか出来ない客側から観えるのは、店の外観・内観・料理の外観・料理の味だけである。ラーメンにどんな思想を込めようが、最終的な審判はその思想から離れた場所で行われる。我々が経験するのは「純粋ラーメン」ではない。そういう意味で、ラーメン職人とは芸術家というよりデザイナーに近く、言葉を使えない分意匠設計家に近い。「意匠設計としてのラーメン」と言うのが正確だったか。だが中国語圏では「設計」という単語が「design」の訳語として充てられていることを鑑みるにそうそう遠いものでもない。
 ということでラーメンはデザインである、異論は勝手にしてくれ。


後記:
 先日、東京ミッドタウン・デザインハブで開催されていた企画展「デザインの理念と形成:デザイン学の50年」に行った時、展示されていた1期から50期までのムサビ卒業生の、それこそアートといった感じのものから一見ただの水槽という具合に十人十色の作品群を観てデザインがカヴァーする領域の幅広さに驚嘆したものだが、その中に料理が無かったのは料理とデザインを考える困難を意味しているのだろうか?

2016年12月25日日曜日

海の向こうの挑発――曺 泳日『世界文学の構造』(訳:高井修)

 を観て森を観ることは難しい。プラープダー・ユン「新しい目の旅立ち」の翻訳が、ポストモダンというキーワードで日本のポストモダンを相対化する賭けだとするなら、曺泳日(ジョ・ヨンイル)の『世界文学の構造』は韓国における昨今の「世界文学ブーム」を色眼鏡に日本の近代文学を、そしてそこから連綿と続く「現代日本文学」を相対化する投石だと言える。そして、その試みは小説技巧やテクスト理論に志向しがちな諸作品が、社会の潮流に流されるまいと引き籠ることでまさに社会の潮流に流されていることに盲目になる様をあからしめることに成功している。


 「世界文学の構造」という題が冠せられているものの、我々日本語読者にとって最もスリリングなポイントは、第二章で論じられる日露戦争と夏目漱石、そして「国民作家」の不可分な繋がりについてだろう。

 石の話が出てくる文脈は以下の通り。韓国のある劇作家は、2010年当時の総理大臣を批判する際に、同国における読書文化・活字文化の乏しさこそが現職の「釈然としないことが繰り返し出てくる『タマネギ総理』」を輩出し、そのため経済状況も苦しいままであるというロジックを展開した。つまり彼の主張を整理すると、読書文化に投資を行うことでコンテンツ(文学)産業が発達する、それによって経済が豊かになるというのである。

2016年12月24日土曜日

ノイズそして水墨画――戸田ツトムとアニメーション作家のdesign

0.目次
  1.戸田ツトム経歴
  2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」
  3.コンピュータ、ノイズ、水墨画
  4.ノイジー・アニメーション――Ian Cheng、David OReilly

1.戸田ツトム経歴

・戸田ツトム
1951年生まれ。桑沢デザイン研究所での松岡正剛との出会いをきっかけに、1973年から5年ほど工作舎で活動、その後独立。『MEDIA INFORMATION』、『ISSUE』『WAVE』『GS』など80年代雑誌で独自のスタイルを築き上げる。杉浦康平の文体を引き継ぎつつ、アンチパターンとも呼べるノイズ的空間処理を行った。


2.デザイン・メディアとしての「ノイズ」

 彼のデザイン思想におけるキーワードが「ノイズ」の概念です。ノイズを単に情報を阻害するものとしてではなく、逆に情報を生産するものとして実作に応用したことが「思索するデザイナー」と彼が呼ばれる所以でしょう。

「何の意味も」読み取れないこの像がヒトの眼球視像より多くの情報量を持っているのだとしたらヒトの営為にとって、情報量の増加とはでたらめさ、あるいは雑音以外の何物でもない。逆に言えば、風景の中に意味を見出すということは、先のいくつかの――といってもそれだけで膨大であるが――厳しい厳しい制限と抑止力を知覚に与えて、できるだけ多くの情報に直接触れないように人体を保護し、外界からの光や情報といった刺戟の大部分を防去するということなのだ。」(戸田ツトム『断層図鑑』(1986年、北宋社)、p.39)

「いずれにしても輪郭が形成される前・事態には状態が一様ではないことの段差、断絶、密度変化などの動因力が機能していることが判る。私はつい最近までこういった兆候へ変移する運動を引き起こす何らかの因子を「ノイズ」と諒解していた。六章までに頻出するノイズというボキャブラリーは大体この周辺の事情を指している。つまり、ほかならぬメディア――触媒――ということであった。」(同書、p339)