2016年12月23日金曜日

【講演会メモ】「真言−翻訳−黄昏 吉増剛造の〈現在〉」(於早稲田大学戸山キャンパス)

第1部ジョーダン・スミス先生の翻訳話は、Twitterのタイムラインに流されたので後日整理してアップします。日本語ネイティブにも読めない詩を英語にするときの工夫が凄まじかった。

第2部は、テレコムスタッフ制作ドキュメンタリー『怪物君 詩人 吉増剛造と震災』の上映。吉増剛造が「原稿」(原稿の概念を覆すような)を作る様子は想像を絶する。現在動画配信サービスbonoboで観れる模様、リンクを貼っておく。
http://video.bonobojapan.jp/contents/detail/10725

第3部、吉増GOZO氏による講演で「聞き取れた」数少ない走り書きをここに載せる。声が悪いということではなく、専門的過ぎてというか異次元過ぎてというか付いていくのに必死だった。自分でも理解できていないが、キーワードを一つ一つ見ると彼が如何なる思索の上で詩作しているかが垣間見える。

第3部、吉増剛造氏。十人が英訳した本は文字通り十人十色で衝撃的。 

浪江で音をたて続ける廃墟、途中の浄土に近づいてる気がした。自由でもなく、ディフェレンスでもない、時間稼ぎでもない。溶けた原子炉みたい。飴屋法水に燃やされた怪物君に「美」。『ミリオンダラーベイビー』のクレオール性。一語一語で異次元に行こうとしてる。詩集も写真のごとく心の傷になる。そういう意味の時々刻々のディファレンス、時間稼ぎはある。 


ナンシーの『コルプス』、「キリスト教の身体は言葉と一体」。有限な言葉が無限を表してるかのように振舞う。瓦礫のような世界で真言を求めると、コルプスのような変な体になる。あらゆる情報を集積する集積所、死体。キリスト教的な均衡は残り、身体はキリスト教の身体から変な身体になる。真言を求めながら別のことをする身体。死者の言葉を聞き、幽霊を出現させようとする身体。 

書物は肉。真言を求めない人には怪物君のような表現はできない。真言を信じてるからこそ。バベルの塔のようにどこにもない言語。プラトニズムな言語ではなく、体験としてのプラトニズム。それを信じる人が日本にはいないが西洋にはいる。ポストモダンが何も信じないなら読むに値しない。書く度に限界(身体)に突き当たる。インクを垂らして肉を作る。「あれが詩」。普通の言語じゃ足りない。活字になるだけでは原言語に辿り着かない。そこに届かなければならないという思いゆえに身体だけが変になる。「声生」こそがコルプス。どういう風に入ってどう読んでも良い。自我じゃない詩人の主体。誰でも出来るわけじゃないし、機械に出来ることでもない。肉体を持った人間がいてこそ成立する。浪江の音を言葉として聞き取る。翻訳したら言葉でなくなる。 

アファナシエフ。吉増剛造なりの美が手元性になってる。

付いて行けなかったとはいえ、「吉増を体験すれば、もっと自由になれる。」の意味が身体で理解できたのは本当に感動的だった。


【イベント概要】
講演会「真言‐翻訳-黄泉の声 ― 吉増剛造の〈現在〉」(12/16)
主催:早稲田大学比較文学研究室
公式: https://www.waseda.jp/flas/rilas/news/2016/10/28/2256/
詳細(PDF): http://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2016/10/Lecture_Dec.16.pdf

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